倫理を学ぶ意義とは
倫理という科目は実にマイナーで、積極的に学ばれる科目ではありません。出題するところはセンター試験と一部の私立だけですし、比重もそんなに高くない。正直な話、倫理の単語集を見て、その字面をなんとなく覚えるだけでセンターの得点は80点を超えたりすることもあります。
そんな倫理ではありますが、塾講師という立場にたてば、倫理を教えなければならない場面があります。それは、生徒が倫理を教えて欲しいと言ってきたとき、あるいは倫理に関する質問をしたときです。
しかし、倫理を学ぶ意義は、入試に合格するためだけではありません。倫理に登場してくる哲学者や思想家は、思考のベースを提供してくれる偉人たちであり、その考えを理解するだけで数学や国語に応用できることも少なくはないのです。
何より、日常生活を豊かにしてくれます。今、あなたの目の前にあるパソコンあるいは携帯電話が今後社会にどんな影響をもたらすのか、それを考えさせるものでもあるのです。
倫理(あるいは哲学)を知ってほしいという思いでこの記事を書きました。この記事は、倫理によく登場してくる偉人たちを取り上げ、彼らがどのような思想を持っていたのかをより深く理解するために書かれています。
デカルトという人
デカルトは、「近代といえばこの人」と言われるぐらいに、そして、現代人の多くの考え方は彼に規定されているといっても過言ではないぐらいに、影響を与えています。おそらく、哲学者の中で現代に1番影響を与えている人物です。
例えば、私たちが”論理的に考える”ということを実行すれば、その手法はデカルトが書いた『方法序説』に基づいたものですし、事実に基づいた思考もまたデカルトの要素を大きく含んでいます。さらに言えば、身体と精神という分け方、物質と概念という分け方など、あらゆるカテゴリーは彼が作り上げたものです。
それぐらいに重要な人物なのですが、実をいうとデカルトの生活はそこまで素晴らしいものではありませんでした。いえ、少し語弊があるのですが、ある意味現代でいう”ふつうの人”と同じような生活をしていたのです。
貴族出身だとかエリート教育だとか、すごい人に出会ったとかそういったものはまったくありません。
若いころは恋愛に明け暮れていたみたいですし。
とはいえやはり頭が良かったことには変わらないようで、今でいう大学では優秀な成績を収めて卒業したようです。
色んなことに興味を持ち、それを論理的に考える癖があった。
それが、デカルトです。
デカルトが考えたことー方法論
さて、デカルトが生きた時代はまさに宗教改革が終わり、キリスト教中心の思想が崩れ始めてきた時代でした。宗教改革が完了したということもあり、人々は何が正しいのかを求めはじめたのです。
今までは「この聖書に書かれていることが全てです」と教えこまれていたのに、急に学者たちが「やっぱり違う」とか言い出す有り様。何を信じればいいのかがわからなくなってしまっています。
正しいもの、信じるべきものを探す人々。
そんな中デカルトはこう考えました。
「そもそも何を基準に正しいといえばいいのか?」
言われてみれば確かに。私たちはなにかを正しいとするためにはそもそも正しいの基準を持ち合わせていなければなりません。「聖書に書かれているから正しい」と言われても、なんでそれが正しいのかという根拠が欲しいものです。
そしてデカルトは何が正しいのかについて研究するようになったのです。
そもそも世界に正しいものなんてあるのか。というより、全てウソなんじゃないか。
そうやってあらゆるものを「正しくない」と否定していって考えたのです。
そして最後に残ったのが、”我”と呼ばれるものでした。つまり、主体です。何かを考える、何かを知る、必ずそこには主語があり、主語となりえる”我”があります。
デカルトがあらゆるものの存在を否定して考えていく中で、「自分は今いろいろ疑っているけど、疑っている自分というには確かに存在するよな。だって存在しなかったら疑うことは不可能だから」という理由のもと、こう唱えたのです。
我思う、ゆえに我あり
これをスタート地点として、世の中の事象についてあれこれと考え、そしてついに確立させた方法論が演繹法というものであり、そしてその手法をまとめた書物が『方法序説』なのです。
具体例
実はこの方法は数学に似ています。
数学の世界にはあらゆる定理と呼ばれるものが存在していますが、それは人間が定義したものから論理的に導かれたものです。例えば、”2組の対辺が並行な四角形”を平行四辺形と人間が定義するわけですが、その定義から対辺は長さが等しいだとか、対角が等しいだとか、あらゆる性質(定理)が導かれるのです。
数多くある数学の定理は、わずかな定義から生み出された。そのことに注目し、デカルトはあらゆるものについて疑いをかけて、この世界の定義を見つけようとしたのです。
機械論的自然観について
デカルトの考え方と自然科学が組み合わさるととんでもないことが起こってしまいました。
あらゆる運動・あらゆる現象には理由があるとされ、それが機械的に動いているに過ぎないというのです。
神の意志がどうこうだとか、神の性質が埋め込まれているだとか、そういった目に見えないものは存在せず、とにかくすべては物質であり、それらは分解が可能だと考えるのです。
実をいうとこの考え方そのものは、アリストテレスの思想と似たものでした。彼も全ての存在を形相だとか質料だとかで分解できるとか、それが因果関係を構築しているとか、そういった考え方でした。
(参照:アリストテレスが考えたこと【倫理の偉人たち】http://www.juku.st/info/entry/1145 )
しかし、アリストテレスはあくまでそこに「目的」を含んでいたのです。それらの運動は何かのためにそうなっているという、私たち人間にはわからない何かの目的のために。
しかしデカルトはそんなものは一切排除。
「ただ動くのみ」という自然観を打ち立てました。
いわゆる現代の物理学はまさにこのスタンスをとっているといえるでしょう。
昔であれば愛が地球を生み出したというような主張がありました。しかし今の物理学には「愛が地球を生み出した」というような記述がありません。
※哲学や倫理を学ぶ中で、「自然観」という言葉がありますが、それは「世界のあり方に関する考え方」と捉えておくといいでしょう。
物心二元論
実は先の機械論的自然観には欠点がありました。
この世界が客観的な運動法則によってのみ動くとするならば、愛や友情といったものはどこにあるのかといった疑問が生まれたのです。
さらに言えば、私たちの持つ自我というのは、どうやって生まれたのでしょうか。
現代人からすればこの問いは愚問のように思えるかもしれません(愚問と思ってしまうこと自体、デカルトの偉大さの証明になります)が、当時は世界にそれらが生み出される何かしらの原因があると考えられていたのです。
そこでデカルトはこう答えました。
「そもそも愛だとか友情だとか、そういった観念はいわば思惟の存在である。一方で、私が述べている機械論的自然観は、延長の存在であり、相互に作用が生まれるわけではない」
言ってしまえば、そもそもこの世界の物理運動に愛だとか友情だとかを組み込もうとすること自体が愚かしいと言っているのですね。
ところで、”デカルトといえば!”というワードが2つ出てきたので解説しておきましょう。
まず、思惟とは、いわゆる観念のもので、自然科学の対象となる存在です。一方で、延長というのは、この世界に物理的に存在するものであり、自然科学の対象とならない(どちらかというと哲学的な)存在です。延長とはよく、「この世界で空間的な広がりを持つ」と説明されるのですが、それはこの世界において質量を有する存在だと思ってくれていいでしょう。愛や友情は、100gとか重みを持つわけでもないし、横3cmと広がりを持つわけではないのです。
このように、愛と友情といった観念と、空間的な広がりを持つ物質の間に大きな溝を作り、まったく別の存在としてしまった。人間でいうならば、精神が観念側で、身体が物質側なので、この溝は心身二元論と呼ばれるようになりました。
デカルトの偉業
個人的にデカルトほど偉大な思想家はいないのではないかと思っています。
「精神と身体」という区別
論理的に考える方法
宇宙を物理的に考える
私たちが当たり前と思っている考え方をたくさん生み出した思想家が、デカルトなのです。もちろんこの思想は全てが受け入れられたというわけではないのですが、近代合理主義を生み出し、新しい系譜を創りだしたという点は評価できるでしょう。