現代の私たちに受け継がれているもの
「日本人は、宗教にあまり関心がない」「宗教のことについて、他の国ほど敏感ではない」日本人の宗教観について、このような言説はよく耳にするのではないでしょうか。
確かに日本は政治と宗教(天皇制はここでは不問とします)、教育と宗教というのは切り離すように法律上にも定められていますし、歴史的にも世界史ほど大きな宗教の動きはなかったといえるでしょう。
しかし、年始のわずか数日間の初詣において、2000万人を超える日本人が神社などを訪れます。
世界3大宗教の1つイスラム教の教徒が聖地に訪れる数は年間でも200万人ほどなのだそうです。
イスラム教において聖地への巡礼が、あまり重要視されていないという側面もあるものの、
戒律を重視するイスラム教徒が日本の人口よりも圧倒的に多いにもかかわらずこれだけの数字の差がでているのです。
簡単な例ではありましたが、この数字を比較してみても、日本人が無意識(もちろん意識している方もたくさんいますが)のうちに宗教的な行動を行っているのが読み取れるのではないでしょうか。
現在述べたのは神道の例ですが、もう1つ、仏教についても考えてみましょう。
あまり良くない例ですが、身近な人に不幸が起こった時、お葬式に立ち会うと「あ、自分の家系は〇〇宗だったのか」と初めて気がつく人も多いのではないでしょうか?
これは江戸時代の檀家制度によって、いずれかの宗派に属する事を決められたのが大きな要因となっています。お盆の際のお墓参りなども仏教と出会う場面の1つです。
このように、多くの日本人にとって、お葬式という宗教的な儀礼で僧に会ったり、仏教のお経を耳にするというのは自然に受け入れるものとなっていますよね。
しかし、今から約1400年前、日本において仏教を受け入れるか否かで大きな争いになった事がありました。
時の2大権力、蘇我氏と物部氏による対立です。
この崇仏論争は単に仏教を受け入れるか否かの宗教問題ではなく、その後の大化の改新や聖武天皇の時代の
鎮護国家思想にもつながります。
本稿では上記のような問題意識から、
約1400年前のヤマト政権で崇仏論争はその後の日本にどのような影響を与えたのか
ということを生徒がしっかり理解できるような指導法をご紹介したいと思います。
ヤマト政権
この問題を見ていくために、まずは約1400年前がどのような時代であったのか基本事項から確認しましょう。
3世紀の後半から4世紀初め頃までに、現在の奈良県大和地方にヤマト政権が誕生しました。
大王を中心とする豪族等による連合政権で、5世紀にはその勢力範囲を現在の九州~関東にまで広げます。
このヤマト政権は氏姓制度によって中央・地方の豪族を大王家中心の支配体制下に組み込む社会制度を整えていました。その豪族たちには臣・連・君・直といったような約30種類の「姓」という称号が与えられます。
政治の中心を担った「姓」
この「姓」の中でも「臣」と「連」が政治の中心となって行きました。この2つの姓の最高地位を頭に大をつけて「大臣」「大連」と呼びます。
大臣・大連はそれぞれ政権内の有力豪族を従えることによって政治をリードしていきます。
本来、この称号は臣・連の最高地位であるため常にそこに位置できるとは限らないのですが、6世紀以降は常に大臣は蘇我氏、大連は物部氏という2大家系が独占していくことになりました。
崇仏論争によって、蘇我氏と物部氏は宿命の敵であるという認識を生徒は持ってしまいがちなのですが、最近の研究成果においては、実はもともと仲が良かったという見方がされています。
この2大勢力による政権の安定期もあったということや、崇仏の対立が起こっても蘇我馬子が物部守屋の娘を妻にするなど関係修復への道を探していたということが史料として残っているからです。
しかし、関係修復への努力むなしく、両者は最終的に仏教を取り入れていくかで大きくもめていく事になります。仏教を崇めるかどうかでもめていくのですがそもそも仏教はどのように伝わっていたのでしょうか。
仏教はいつ伝わってきたか
ここは、飛鳥文化とも関連するのですが、背景知識として仏教はそもそもいつどのような目的で伝えられていたのかを確認しましょう。
仏教が公に伝わってきたとするのには2つの説があります。(仏教公伝)
①538年説 史料根拠:『上宮聖徳法王帝説』(「聖徳太子」の伝記)こちらは、「聖徳太子」の伝記である『上宮聖徳法王帝説』を根拠としています。
「 (1)志癸嶋天皇の御代の(2)戊午の年十月十二日、(3)百済国主の明王、始めて仏像経教並びに僧等を度し奉る。勅して(4)蘇我稲目宿禰大臣に授けて興隆せしむる也。」
引用元:『上宮聖徳法王帝説』
史料で指導したいポイントは4点です。
(1)志癸嶋天皇、つまり欽明天皇のご時世の(2)戊午の年(=538年)に(3)百済国主の聖明王が初めて仏教経教並びに僧を送ってきた。そして(4)蘇我稲目に授け、興隆させた。
これが538年に伝わってきたとする説です。
②552年説 史料根拠:『日本書紀』
こちらは日本の正史『日本書紀』を根拠としています。
「(欽明天皇十三年)冬十月、百済の聖明王(中略)釈迦仏の金銅像一躯、幡蓋若干、経論若干巻を献る。(以下略)」
引用元:『日本書紀』
こちらのポイントとしては一点のみ。欽明天皇13年というのが552年を示しています。その後の百済の声明王からというような点は①の説と同一ですね。
しかし、このどちらの説が正しいにせよ、すでに仏教は私的に伝えられていました。(仏教私伝)
『扶桑略記』という史料にはこれ以前の継体天皇の時代に、渡来人の司馬達等が仏像を自宅に於いて祈った姿が記されています。
講師の皆さんへ~もう1歩踏み込んだ教材研究~
生徒に伝えるとしたらここまででも十分難関私大に対応できるのですが、本稿は講師向けの記事なので、もう1点講師の皆さんに知っておいていただきたいことをお伝えします。
百済の聖明王というのは一体どうして日本に対して仏教を伝えたと思いますか?
入試では余り問われませんが、ここは当時の国際情勢が色濃く出ている大事な部分です。
実はこの当時百済は隣国新羅と北部の高句麗から軍事的圧迫を受けていました。
そこで日本と信頼関係を深くして軍事的な援助をしてもらうために、仏教を「プレゼント」することにしたのです。
当時の仏教は国を豊かにするための「科学」と捉えていたからです。
これは現代の感覚では考えにくいのですが、現代においても友好関係を築く国に最先端の科学技術を提供したりしますよね。それと同じようなイメージで考えて頂けたらと思います。
蘇我氏と物部氏の闘いと決着
最終的に、蘇我氏と物部氏は以下の様な対立構図になります。
それぞれが崇仏、もしくは廃仏を主張し、引けなかった理由としては
・蘇我氏:もともと中国、朝鮮からやってきた渡来人と交流が有り、仏教を信仰することは彼らとの交流
を深めることでもあった。
・物部氏:外国から伝わる新しい「神」でなく、天照大神をはじめとするこの国の神々を祀るべきであ
る。
があげられます。最終的にこの崇仏論争は物部守屋と蘇我馬子の代で決着がつき、崇仏派の蘇我氏が勝利をおさめました。これは、蘇我氏に対して抵抗できる有力な豪族がいなくなったことを意味しています。
権力を手中に収めた蘇我氏はその後、政治を専横していくほどに栄華を極めるのです。
この続きの部分については、拙稿「【日本史講師対象】大化の改新は何故起こった?古代史上最大のクーデターの本質に迫る授業方法」(URL: http://www.juku.st/info/entry/1133)をご参照頂けたらと思います。
まとめ
本稿では、仏教を国家として崇めるかどうかの崇仏論争が、大化の改新前の最大の権力闘争であったということをわかりやすく教える方法をご紹介しましたがいかがだったでしょうか。
最後に指導のポイントをまとめると
テーマ:崇仏?排仏?仏教を巡って起こった壮大な権力闘争
◯日本人の宗教感覚~日本人は宗教に無関心?~
(1)神道の例
(2)仏教の例
(3)仏教を取り入れるか否かで国家を2分した時代があった?
◯ヤマト政権の2大豪族
(1)ヤマト政権はいつ、どこで誕生したか
(2)氏姓制度
(3)二大勢力~蘇我氏と物部氏~
◯仏教の伝来はいつ?
(1)2つの説~538年か552年か~
(2)仏教はすでに私的に伝わっていた!
◯崇仏論争、決着
(1)対立の構図
(2)蘇我氏の勝利、そして・・・
という順番で指導をすればその後の大化の改新にもスムーズにつながるかつ、因果関係をしっかりつかめる授業になると思います。本稿はあくまで一例ですが、よければ参考にしてみてください。
長くなりましたが本稿は以上です。ここまで長文ご精読ありがとうございました!