倫理を学ぶ意義とは
倫理という科目は実にマイナーで、積極的に学ばれる科目ではありません。
出題するところはセンター試験と一部の私立だけですし、比重もそんなに高くない。
正直な話、倫理の単語集を見て、その字面をなんとなく覚えるだけでセンターの得点は80点を超えたりすることもあります。
そんな倫理ではありますが、塾講師という立場にたてば、倫理を教えなければならない場面があります。
それは、生徒が倫理を教えて欲しいと言ってきたとき、あるいは倫理に関する質問をしたときです。
しかし、倫理を学ぶ意義は、入試に合格するためだけではありません。
倫理に登場してくる哲学者や思想家は、思考のベースを提供してくれる偉人たちであり、その考えを理解するだけで数学や国語に応用できることも少なくはないのです。
何より、日常生活を豊かにしてくれます。
今、あなたの目の前にあるパソコンあるいは携帯電話が今後社会にどんな影響をもたらすのか、それを考えさせるものでもあるのです。
倫理(あるいは哲学)を知ってほしいという思いでこの記事を書きました。この記事は、倫理によく登場してくる偉人たちを取り上げ、彼らがどのような思想を持っていたのかをより深く理解するために書かれています。
スピノザという人
デカルトが登場すると誰もがその思想の根本を否定することができませんでした。
(参照:デカルトが考えたこと【倫理の偉人たち】)
確かに経験論だとか認識論だとか…あるいは神の存在についての論争はありましたが、
思惟と延長を区別してしまうという考え方については誰も異論を唱えることができなかったのです。
それはそうでしょう。
数百年経った私たちがそれを「当たり前」と思っているのですから。
しかし、スピノザはある使命を帯びていました。
心身二元論の欠点
心身二元論は完璧ではありませんでした。
確かに愛が地球を生み出すといった話はありませんが、
人間に注目してみると何かおかしなことが起こっているのです。それは、
精神が身体を動かしている。
…おかしいと思いませんか。
そもそも心身二元論というのは思惟と延長の間に大きな溝があるはずなのに。
人間という枠においては、なぜか精神が身体に干渉している....
スピノザはこの点に注目したのです!
もともとエリザベートという人物がこれについて指摘をしていたのですが、
スピノザはその解決方法として心身平行論を唱えました。
この世界は2つに分類されます。
その2つの世界とは、
思惟の世界と延長の世界
です。
【思惟と延長】
思惟の世界にあるものは、いわば観念だと思っていただき、延長の世界にあるものは、いわば物質だと思っていただけたらわかりやすいかと思います。
思惟の世界での運動とは?
私は1分後に悲しい気持ちになり、1時間後に喜び、明日の今の時間は絶望に陥っている。一方、延長の世界での運動では、59秒後に友達に裏切られ、59分59秒後にはその裏切りが自分のためだとわかり、明日の今の時間の1秒前には友達の死を知る...
そう、この世界は思惟の世界と延長の世界が平行して動いているというのです。
友達に裏切られたことで悲しい気持ちになった、という因果関係は間違いで、
それは単に「ほぼ同時に起こったにすぎない」というのです。
神を否定させない
心身平行論というとんでもない時計じかけを持ちだしたスピノザは、なぜそのような時計じかけが成立するのかについても考えました。
しかし、その答えは単純なもので、
思惟の世界と延長の世界は、すなわち神である
としたのです。
あらゆる生物は複雑な化学作用が調和してできあがっているように、この世界もひとつの生態系のようなものであると言い出したのです。
神は完全なのだから、この世界の生態系も完璧なのだと。
少し難しいかもしれないので、この世界はプログラムだと考えてみてください。
目の前にあるPCの画面、携帯電話、それら全て私たちが触覚と視覚という情報を持って「ある」と認識しているわけですが、その感覚をもプログラムで構成されたものだとしたら。そして隣にいる人物もあなたの脳内に送られている偽の情報によって「いる」と認識させられているにすぎないとしたら。
あなたが「愛」を感じた時も、それはプログラムによってそう思わせられているにすぎないとしたら。
つまり、
この世界のありとあらゆる存在、ありとあらゆる観念は、
プログラムによって作られたものだとしたら、
そのプログラムこそ神だと言えるのではないでしょうか。
あるいは、
そのプログラムを作った人が神だと言えるでしょう。
スピノザはそのように言うのです。
神とはもともと思惟と延長の両方の性質を持った存在だが、それが流れだして世界を満たした。
この世界にある全ての存在、全ての観念は神なのだと。
神はありとあらゆるところにいる。
これを汎神論と呼び、神=自然という考え方を神即自然と呼びます。
ちなみにスピノザがデカルトの論理を用いてそのように主張したのは、
デカルトの思想に神という存在がほとんど役割を持たず、ほぼ否定されているようなものだったからです。
スピノザは一応神を信じていたので、どうにか神の存在をデカルトの論理の中で生み出そうとしたのです。
なぜこのような思想が生まれたか
神がどうこうとか、すごく難しいことをいっていますが、要は、
世界の構造=神
だと言いはるのです。
こうなってくると「神って何?」という質問がきそうですね。
スピノザはこれについて厳格に考えました。
「神とはあらゆるものの始まりである。ということは、全ての存在の原因である必要があり、さらにはその存在は原因を持ってはならない」
つまり、この世の中で起こっている全ての因果関係のうち、
全ての因でありながらも、神にとっての因は持ってはならないと言うのです。
これは、アリストテレス的な発想ですね。
彼もこの世界が動くためには最初の一突きが必要だと言っていましたので。
ここでの面白いポイントが、有限と無限でした。
私たちの感覚で話を進めますと、時間と空間は無限の存在です。
いつまでも遡ることはできるし、いつまでも先を行くことができます。
もちろん物理学の話を持ち込めばそうではないという話があるでしょうが、哲学的には時空は無限の存在なのです。
しかし、無限であるのにも関わらず、私たちはそこから有限を生み出すことができるのです。
”1分”という時間は、無限の時間から切り取られて生み出されたものですし、”1m”も無限の空間から切り取られて生み出されたものです。
この世界にあるあらゆる存在は、有限の存在であるのだから、まず神は無限でなくてはならないのです。
そして無限であるということは、それ自体が何かに包括されることがないということです。
空間に無限の存在が2つあるはずがないのです。
1つの存在が無限であれば、他の存在が残る余地がなくなります。
例えば、神が無限の延長だとすれば、延長は空間的なスペースを占めるということであるので、
いかなる存在もそこにあることはできなくなります。
となると、この世界は無限である神で満たされる必要があるということで、世界はすなわち神であるということになります。
では、この世界が神で満たされるとするならば、”私”という存在、”机”という存在はどうなるかという話になりますが、スピノザはこう答えます。
「君の存在もある意味神だといえる。神の一部であり、ただの様態にすぎないのだ」
例えるならば、この世界がひとつのプログラムだとして、それが”神”というソフトウェアだとするならば、
そこに書かれているコードはすべて”神”の一部であり、
私自身もコードによって作られた神の一部なのだということになります。
まとめ
彼が考えている思想はあまりにも論理的で、かつあまりにも壮大でした。
定義・公理から出発して、演繹的に次々と説明を展開していく方法はデカルトと同じではありましたが、その規模はデカルト以上のものでした。
また、デカルトが残した矛盾「精神と身体の二元論」を神の名において一元的に捉え、矛盾を解消したことは十分に評価されています。
残念ながら現代にまで彼の思想の大部分が引き継がれることはありませんでしたが、デカルトの系譜を引き継ぎ、その思考法を広めたという点では評価できるでしょう。
実際彼が打ち立てた考え方を否定することは大変難しく、確かにそうかもしれないと思わせるものばかりです。