時代区分の理解を現代文に生かそう
現代文を読んでいると、必ずと言っていいほど時代の名前が出てきます。
特に聞く名前が”近代”ではないでしょうか。○○的といった言葉は、現代文にはよく出てくるものの、それを詳しく解説するのは難しいです。そこで、今回の記事では○○的とはどのような意味を持っているのかを解説していきます。
これらを理解することで、現代文に出てくる”思考の枠組み”について簡単に理解することができますので、是非ご一読ください。
古代の特徴
背景
人はなにか出来事があると理由を求めたくなるものです。しかし、数千年も前の人達は現代人が持っている理科の知識を一切持っていないのです。例えば、雨が降ってできた水たまりが、明日には消えているのはなぜか...などです。
今の人たちは”蒸発”という言葉を知っていますが、昔の人はそれを知らなかったのです。では、その出来事の原因をどこに持っていけばいいでしょうか...
古代の人たちは、あらゆるものの原因を神に帰属させたのです。
思想の内容
古代といえばだいたい紀元前だと思ってくれて構いません。ギリシャのポリスが栄えている時代をイメージしてくれるといいでしょう。小さな家がたくさん集まって集落を作り、少し高い丘には神聖な儀式の場を建設する。そしてそこで豊作を祈願したり、戦の行く末を占ってもらう...そんなイメージです。
彼らの思考の中心には必ず神がいました。
雷が落ちた→なぜだ?→神様がお怒りになった
豊作になった→なぜだ?→神様の機嫌がいい
このように、あらゆる事象の原因を神に置いたのです。全ての原因を神だとする、これが古代的な考え方だと思っていいでしょう。
ちなみに古代といえばソクラテスやらプラトンといった人々を思い浮かべるかもしれませんが、彼らの思想はそのポリス全体に影響を与えたわけではないので、中心的な考え方とはいえません。あくまで中心にいたのは神なのです。
当時の考え方を一言でまとめると、「全部神様のせいだ」
ですね。
中世の特徴
背景
次に来るのは中世。キリスト教が始まってローマ帝国が力を持つようになり、そしてその帝国がキリスト教を認めるようになって始まったのが中世という時代です。いろいろな政治的な理由が重なって力を持ったキリスト教ですが、彼らは教会制度を用いてその思想を広めることに成功しました。
当然、中世的な考え方といえばキリスト教的考え方ということになるのです。
思想の内容
キリスト教的な考え方というのをもう少し詳しく見ていきましょう。当時のキリスト教というのは今のキリスト教と異なり、人間を無力だと捉える傾向があります。人間は原罪を背負っているだとか、人間は楽園にいけないだとか、人間は教会に通わないと地獄にいくだとか...とにかく神にすがり、人間の弱さを乗り越えようとするのが、当時の考え方でした。
まとめると、「人間は弱い、神様はお強い」
ですね。
近世の特徴
背景
近世という言葉はあまり聞き慣れないかもしれませんが、これはキリスト教中心社会から合理主義的な社会へと移行する過渡期ですのでかなり重要です。
中世はたしかにキリスト教中心ではあったのですが、1000年頃になると、別の強大な宗教集団、イスラム教が力を持つようになりました。キリスト教は西欧を支配していましたが、イスラム教はアフリカと中東一帯を支配するようになり、両者は度あるごとに争いを繰り返していたのです。
すると当然、キリスト教の力は衰えてくるようになります。加えて、戦争があるということは物流も活発化させることになり、そのため商人が力を持つようになりました。教会という権威が失墜したこと、そして商人が力を持つようになったことが重なって、キリスト教中心の思想が崩れたのです。
思想の内容
近世といえば十字軍後の時代のことを指すのですが、そのときに登場したのは人文主義やモラリストでした。彼らは、神を崇める対象だとしつつも、決して人間を無力だとは思いませんでした。人間が作る作品は素晴らしいものであり、どんなもんでも極めれば神に近い存在になれると信じたのです。
例えばレオナルド・ダ・ヴィンチは万能人としてその名を馳せましたが、それは商人たちによる援助がなければすごく難しかったのです。商人たちがキリスト教に関係のない芸術を支援するようになったことが、人間の可能性を開花させました。
当時の考え方を一言でいうと、「人間っていいな」
ですね。
近代の特徴
背景
近世において、神が絶対視される時代が終わり、人間が中心に立つ時代になりました。人間は何をどうすれば力を得られるのかを必死に考えたのです。そうして発達したのが自然科学でした。自然科学とは今でいう科学技術の根幹であり、自然科学を用いればあらゆる問題を解決できると考えたのです。
確かに、今の人間社会は自然科学を駆使して文明社会を築き上げ、今ではクローンだとかips細胞だとか、あるいは統計による未来予知だとか、神に近いことができるようになっています。
しかし、自然科学は何も特殊能力というわけではなく、人間であれば誰であっても、理性を用いれば理解し活用できるというものだったのです。なぜなら、その体系は演繹的に論理で組まれたものだから。演繹・論理・自然科学、そうした言葉が近代を作り上げました。
思想の内容
近代の思想はある意味自然科学そのままで、とにかく理性を重視するものでした。人間が必死になって論理的に考えたものは全て正しいとされ、そうすべきだと考えられたのです。それは自然科学のごとく。
この思想にとりつかれた人々は、あらゆるものを合理的に捉えようとしたのです。ちょうど産業革命も起こり、資本主義の芽が出てくると、とにかく利益をあげるために、とにかく国益のために、といったように、一つの目的のためにあらゆるものをそれにあわせて合理的に捉えようとしたのです。
もしあなたが”企業の利益を最大化する”ということを目的としたら、全ての資産、全ての行動がその目的にどのように利用できるかを考えるようになるでしょう。合理的な思考はとういった意味で、一つの目的を達成するのには優れています。しかし、”幸せに暮らす”といった、目的に設定されないものの重要な目標については、その合理の範囲から外れることになってしまい、無視されてしまうのです。
環境問題として現代ではそれは目に見える形になりましたが、近代当時も、そうした問題は一応意識されていたようです。
現代の特徴
背景
近代は理性中心でしたが、現実は自然科学のように単純な論理で決定されるようなものではありませんでした。理性に従えば全て大丈夫だと思っていたら、人間が自分の選択に従って戦争を生み出す虐殺者、ヒトラーが誕生しました。彼は別に横暴な権力を用いたというよりも、民主的に決定されたという事実に、色んな哲学者が絶望を覚えたのです。
もしかしたら、人間がいかに必死に考えようが、いかに論理的に考えようが、正しい答えを見つけることはできないのではないか。結局理性を用いても、過ちを生み出すのではないか...
そんな絶望が現代に生まれました。
思想の内容
じゃあ結局、本当に正しい答えを見つけてくれるものはなんだろう、中世だったら聖書に従えばいいと思っていた。近代だったら理性に従っていればいいと思っていた。けれども、どれもこれもダメだった...
それが現代なのです。今の時代に、”これが正しい”というような思想は未だ存在しません。一応有名どころとしてハーバーマスやレヴィナスなどがいますが、彼らの思想も現代人の思想に強く根付いているものではないのです。
ですから”現代的”とはすなわち”真理に対する悲壮感”と意味できるのかもしれませんね。
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