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聖武天皇はなぜ仏教で国家を守ろうとしたのか

高校生

2021/12/17

入試で問われること

奈良県にある東大寺は、栃木県日光東照宮に並び、選ばれる修学旅行の行き先です。多くの中学生や高校生が毎年この地を訪れ、社会人や年配の方にも人気の観光名所となっています。

特に本稿を読んでいる歴史科の講師の皆さんは、修学旅行でなくとも実際に足を運んで東大寺の大仏を見に行った方も多いのではないでしょうか。

東大寺

今から約1300年前、奈良の土地では壮大な国家プロジェクトが行われていました。
それがご存知「大仏の造立」です。743年に聖武天皇が大仏造立の詔を発令してから、開眼式が行われる752年まで約10年かけて遂行したプロジェクトでした。

この奈良時代の聖武天皇の大仏造立までの動きというのは、これまでの歴史教育でも、小学校の段階から取り上げられるほどにポピュラーなテーマとなっています。


そのテーマの学習では、「(1)聖武天皇が奈良時代に大仏を造立したのは、相次ぐ飢饉や疫病、乱による社会不安が増大していたからである」という説明で習ってきた方が多いと思います。
事実、教科書を確認してもこのような記述になっています。

教科書

もちろん、下線部の説明はその通りなのですが、これは起こった出来事の表面をなぞらえているのみで、1つ1つの社会的背景の奥にある当時の民衆の生活や気持ちなどへの答えにはなっていません。(後ほど詳しくご紹介します)小学校からずっと学んできたことを、知った気持ちになっていたら大学入試で足下をすくわれた・・・という事になりかねない部分なのです。

これは、日本史に限りませんが、入試においては誰もが知らない問題よりも、受験生皆が必ず通ってきたテーマをいかに1つ1つしっかり理解されているかで得点が分かれます。

難関国公立大学の入試の論述問題を見てみると、決して奇問・難問で構成されているわけではなく、標準的な事柄をいかにしっかり背景や目的、その他の事象との関わりを理解しているかが問われているのがわかります。
筆者は仕事柄、様々な大学の教授と合う機会があるのですが、教授の方々に受験出題の話を聞いてみると、
多くの受験生が知らないようなマニアックな問題よりも、オーソドックスな内容を1つ1つしっかり勉強してきたのかを試したい」と言っています。

出題者がこのように言っているのなら、それに向けた対策をしない手はありません。
少し話がそれてしまいましたが、本稿では上記のことを踏まえ、

聖武天皇はなぜ大仏を造立することになったのか

という部分を生徒が下線部(1)のこと以上にしっかり理解するための指導法をご紹介します。

奈良時代の社会

710年、それまでの藤原京から、平城京に都が遷都されます。
本稿の主人公聖武天皇は奈良時代が始まって間もない724年に即位します。


就任した頃の日本は、東北で蝦夷による反乱が度々起こり、701年に大宝律令を制定して以来、律令制による国家運営が可能かどうかを模索する過渡期でもあった時期でした。

プロセス

聖武天皇は政治上の様々な問題が起こらないよう、改善に乗り出しますが、それ以上に多くのトラブルに見舞われて最終的に「仏教の力で国を守る」という考えにたどり着きます。

超自然的なものへの受け止め方

聖武天皇が仏教という宗教に頼りたくなった背景をより深く捉えるために、まずは人物像と当時の宗教的な感覚を確認します。聖武天皇は生まれつき病弱な体質で、実の母(藤原宮子)は産後心の病にかかってしまい、聖武天皇は37歳になるまで一度も会うことが出来ませんでした。

妻である藤原安宿媛(光明皇后)との間には、長男”基”が誕生します。
しかし、この”基”は生後1年もたたずに死亡してしまいます。

ここで、藤原氏が登場します。藤原4子(房前・武智麻呂・麻呂・宇合)が、この”基”が死んだのを、時の権力者長屋王が呪い殺したからだとしたのです。

祈り

現在の我々の感覚からは信じられませんが、この当時非科学的であっても、超自然的な力はあるとされていました。物理的な殺人でなくとも、呪い殺したというのは1つの重大な犯罪として捉えられていたのです。

もちろん、長屋王が1人の人間である以上、呪うだけで人を殺せるはずはありませんが、これによって最終的に自殺に追い込まれてしまいます。これが729年に起こった長屋王の変です。

そして、737年に今度は長屋王を自殺に追い込んだ藤原4子全員が流行していた天然痘によって死亡します。
これは長屋王のたたりではないか(これを御霊信仰と言います)と当時の世間を震撼させました。
こうした2つの出来事を見るだけでも、当時の民衆に超自然的なものへの畏怖があったことがわかります。

これらの事を理解する上で確認したいのは、聖武天皇の「仏教によって国を守ろう」という目的は、8世紀前半の人たちにとって決してでたらめなものではなかったという事です。

現代では考えられないような政策・大衆心理であっても、当時の人々は真剣に考えていたというのが歴史に向かう大事な姿勢だということも生徒に伝えてあげましょう。

民衆の苦しみ

次に、当時の民衆が、どのような苦しみの中で生活していたのかを確認してみましょう。
これは、文字の史料として残っています。

「かまどには火気吹き立てず 甑には蜘蛛の巣かきて 飯炊くことも忘れて
 しもと取る 里長が声は寝屋処まで来立ち呼ばひぬ かくばかりすべなきものか
 世の中の道」
                          引用元:『貧窮問答歌』より

現代語訳をすると、

「かまどには火の気が無くて 甑には蜘蛛の巣がかかり ご飯を炊くことも忘れてしまった。ムチを持つ里長の(税を納めろという)声が寝所まで聞こえてくる 世の中の道はこれほどつらいものなのか」

となります。解説するまでもなく庶民の生活の苦しさが伝わってきますね。
それではなぜこのように苦しい生活となっていたのか、この時期の税制度を確認しましょう。

<奈良時代の税制度>
●租:収穫した稲の約3%を納める
●庸:都において10日働くor布を2丈6尺納める
●調:各地方の特産物を納める
●雑徭:年間最大60日土木工事などの雑用で働く
●兵役:21~60歳のうち3分の1が兵につく

さて、この税の中で何が民衆を苦しめたか予想はつくでしょうか?生徒にも発問してみましょう。

兵役の年齢を見てください。朝廷は戦える兵士を集めなければ意味を成しませんから、やはり体力のある男性を税の一種として課します。

一方、農家にとっても最も必要とするのは若い男性の力です。農作業というのは畑を耕す、稲を刈る、収穫物を消費者に届けるなど様々なところで人手が必要になります。

ただでさえ人数が減ってしまう上に、若手の男が兵役として働き盛りの男が農作業から離脱するというのは農家にとって大きな痛手でした。こうして、税が払えず土地をそのままに逃亡する者も現れ始めます。

拙稿「【入試頻出】古代の土地制度をどう教えるか~初期荘園の成立まで~」URL:http://www.juku.st/info/entry/1191 

にその部分を詳しく解説しているので併せてご参照ください。

繰り返し行った遷都

奈良時代は官僚社会だったため、民衆が苦しい生活を強いられる一方で、貴族はかなりの高収入を手に入れていました。民衆が税も払えないほど貯蓄がないのに対し、一位(最高位)の役人はこうした民衆の税金を給料として分配し、巨額の富を蓄積していました。

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民衆が苦しい生活を強いられている中で、民衆からの税金で優雅な生活をしている貴族。これは現代でも同じ事ですが、過度の経済格差は社会不安を引き起こします。逃亡者や浮浪者が多くなれば略奪や強奪などの治安悪化につながります。

そして740年、聖武天皇の人事への怒りから大宰府で藤原広嗣の乱が起こります。
これは国家を転覆させようとするようなクーデターではなく、聖武天皇が遣唐使経験者の吉備真備、玄昉を重用していた人事への抗議として起こしたものです。

737年に天然痘で藤原四子が亡くなった事、そして大宰府で藤原広嗣が反乱を起こすという社会不安の連続に、聖武天皇は気分一新、都を変えることを決断します。

ここは生徒にも必ず地図帳で一緒に確認してほしいのですが、順番としては山背国恭仁京→摂津国難波宮→近江国紫香楽宮と遷都を繰り返しました。

国を守るために

これと並行して、大仏造立に向けた具体的な取り組みを始めます。

741年国分寺建立の詔を出し、国ごとに国分寺・国分尼寺の建立をするよう発令します。
大仏造立に先駆けて、仏教を広めようとしたことが目的でした。


しかし、各地に国分寺を作り、遷都を行っているだけでは社会の状況が改善されることはありませんでした。
思いつめた聖武天皇は、743年には大仏造立の詔をだし、ついに東大寺に盧舎那仏という大仏を建立することを決定しました。

これについては諸説ありますが、聖武天皇は、
「国民全員が、仏に見守られていると目に見える形で実感できたら、もう2度と社会の乱れは怒らず、平穏に暮らせるのではないか」と考えたことからより直接的な形で仏を崇めることの出来る大仏造立を選んだとされています。

盧舎那仏

また、唐にはすでにこのような大仏が造られていましたが、聖武天皇は世界初の黄金大仏にこだわりました。
社会の隅々まで、仏の尊い光が届くようにしたかったからです。

こうして約10年の月日を経て、752年ついに大仏開眼供養を迎えることとなりました。

まとめ

本稿では、聖武天皇が東大寺に「盧舎那仏」を作るまでの過程の社会的背景をしっかり理解するための指導法をここまでご紹介しました。最後に指導のポイントをまとめます。

テーマ:仏教をめぐる国家プロジェクト!聖武天皇はなぜ大仏を建立したか!?
◯奈良時代の社会
(1)復習~日本は仏教をどうして取り入れたか~
(2)長屋王の変と天然痘による藤原四子の死
(2)奈良時代の人々の超自然的なものへの向き合い方
◯民衆の苦しさ
(1)「貧窮問答歌」に見る当時の庶民生活
(2)なぜ民衆は苦しい生活を強いられたか~税制度より~
(3)社会不安の増大
◯聖武天皇が東大寺を作るまで
(1)気分一新!都の引っ越しだ!
(2)国分寺建立の詔
(3)大仏造立へ

という順番で指導をすれば、当時なぜ聖武天皇が大仏を確立していったのかという事を生徒がしっかり理解できると思います。

あくまで一例ですが、指導する際の参考になれば幸いです。本稿は以上です。

ここまで長文ご精読ありがとうございました!

 

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