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国家について考えた人たち【倫理の偉人たち】

高校生

2021/12/17

国家について考えるとはどういうこと?

倫理を学ぶ人のみならず、政治経済・世界史、あるいは教養として、

国家論のことはよく知っていると思います。

例えば、ロックの考える自然権だとか、抵抗権だとか、あるいはホッブズの万人の万人による闘争など…。

しかし、国家論とは実に面白い軸を持っており、実は深い内容が詰まっています。

これを理解するためには、

絶対王政のロジックを支えるフィルマーの理論と、その他の国家論を対比することが必要です。

この記事では国家論を「信仰と理性」を軸に深めていきます。

 

フィルマーの絶対王政

さて、国家について考えるためにまずは時代背景を理解しておきましょう。

国家論が流行する時期は、15世紀〜18世紀ごろでした。

というのも、15世紀は百年戦争が終わり、

フランス・イギリスといった強大な国家が、絶対王政の体制を固めたためです。


少し想像してみて欲しいのですが、当時、神様という存在は一応信じられていました。

人民からすれば、

神様に、つまりローマ法王に支配されることは、(もしかしたら)納得できることかもしれません。

 

かし、絶対王政下では

どこからか出現したただの人間がいきなり偉そうに、「お前ら俺の言うことを聞け」と言い出すわけです。

 

もちろんそんな体制許せませんよね。

赤の他人のために税金を支払ったり兵役が課せられたりするわけなのですから。

 

ゆえに、王様としては自分の立場を正当化するための理論を探す必要があったのです。

そこで登場したのがフィルマーでした。

この名前はどの科目においても有名ではありませんし、重要でもありませんが、絶対王政を広めた人物としては十分意義のある人物です。

 

彼はこう理論づけるのです。

「君たち。王様がなぜ君たちを支配しているのかがわからないことだろう。しかし、この世界は神様によって動かされている。皆が不幸せになるように世界を動かしなさるわけがない。ということは、君たちを支配する王様は、神が遣わした使者であり、皆は彼に従うことによって幸せになるのだ」

 

都合のいい理論ですね。

しかし、当時の人間からすれば、信仰を盾に取られてしまうと何も言えなくなってしまうんですね。

これは完全に信仰に基づいた理論です。

実際、これによって絶対王政が支えられたわけですが、理性が台頭してくると様々な反論が来るようになります。

 

 

 

理性から始まる国家論

①まずは仮定から始めようーホッブズ


ホッブズは絶対王政を支持したということで、現代人からしたら少しイメージが悪いかもしれませんが、

理性を用いて国家を語ったという点においては彼の業績は優れています。

 

まず「理性を用いて国家を語る」ということは、合理的に・論理的に国家を分析するということです。

最初に疑いにくい仮定を設定し、そこからデカルト風に演繹的に論理を組み立てるのです。

しかし、演繹法の特徴ではあるのですが、仮定をどう設定するかによって結論がまったく変わるのです。

 

ホッブズは、

もし国家というのが存在しなかったら、この世界はどうなっているか」を考え、

そしてある一つの仮定を立てました。


この仮定を自然状態と呼びます。

 

それが、万人の万人による闘争です。

 

皆さんにとっても、これは十分に納得のいく仮定ではないでしょうか。

もしこの世界に法律やルールが存在しなかったら、各々が自分の利益を最大化するようにして行動します。

特に自分の安全を守ることを再優先しますが、それゆえに武器を持っている他者を攻撃するような状態に陥る...国際関係論においても似たような論理(リアリズム)が用いられるぐらいに、有用な仮定です。

 

ホッブズはその仮定に基づき、国家がどのように誕生するのかを考察したのです。

 

各々が自己保存のために戦いを起こそうとするのならば、一つ強大な権力を完成させてしまえばいいのではないのか。

 

そうして誕生したのが、リヴァイアサンです。

1人1人が生きようとする権利を国家という強大な機構に委ねてしまえば、国家の中に争いはなくなります。

 

ホッブズの思想は現代でも実際に生きています。

例えば警察や軍隊は、国家のみに許された権利であって、個人がそれを所有することは許されていません。

これによって国家は、国内で起こった争いを鎮圧することが可能になるのです。

 

 

ホッブズは理性的に自然状態という仮定から論理を始めましたが、結局

「やっぱり絶対王政でよくないか?」

となったのです。

 

ただ、これによる欠点はあります。

国家のみに暴力が許されるとすれば、その暴力を行使する人物が完璧に公平でなければならない。

そうなると、絶対王政という君主制は、かつてアリストテレスが分析したとおり暴走しやすい可能性を秘めていることになります。(参照:アリストテレスが考えたこと【倫理の偉人たち】)

これについて、ロックは別の論理を打ち立てたのでした。

 

②違う仮定ーロック

ロックが考えたこと【倫理の偉人たち】を参照していただけると理解が深まります)

 

すでに申し上げたとおり、仮定が少し異なることによって結論が全く異なります。

ホッブズとロックは理性を用いて国家を語りましたが、仮定が違ったためにまったく違う結論が誕生したのです。

 

 

ロックが設定した自然状態(仮定)とは、

「いきなり争うってことはないでしょう。人間は一応理性を持っているのだから、きちんと相手のことを考えようともするさ」

です。

 

簡単に言うと、私たちは別に国家だとか権力だとか、そういった存在を知らないときから、「友達」という存在を知っています。

小さな頃、友達と一緒に遊んでいた時、気に入らないからっていきなりぶん殴ったり、物を奪ったりするようなことはありません。

 

けれども一応争いはあります。

自分がすごく貧しければ盗みをしちゃいますし、相手にすごくムカつけば殴りもします。

貧しい人を助けてあげよう。

争いが起こったら解決してあげよう。

そういった問題を解決するには、やはり権力は必要なのです。

ということで、ホッブズと同じような結論になるかとおもいきや・・・・・そうではありません。


ホッブズの理論は、完全に人を信用していないパターンですが、

ロックは人には理性があると信じており、自ら統治する力があると信じていたのです。



結果として、「人が自らを統治する」構想が完成しました。

 

具体的には、

自然権の一部を国家に委託する。

もし国家がその自然権の集合を適切に用いることがなければ、人民はその権利を剥奪することができる。

といったものでした。

 

立法機関にしろ、執行機関にしろ、人民が自分で統治する構図だったのです。

 

③仮定は似てても違う結論ールソー


実をいうと、ルソーが設定した仮定はロックのものと似ていました。

違いは、ルソーは争いの原因をより深く分析したということでしょうか。

そもそも争いだとか、協力だとかは、人との関係がなければ成り立ちません。

そして人との関係が存在するということは、すでに自然状態ではないわけけです。

 

 

本当に本当に自然状態であれば、人は孤独であり、そして自由です。


誰もが誰かと関係を持たない世界。ある意味、平和ですよね。


しかし、その平和を良しとするならば、我々はその世界に戻るべきなのです

本来、そこは平和なのですから。


ただ、私たちは文明を手にし、人との関係の良さを知ってしまった。

もう過去に遡れないのです。

 

ではどのような国家を築くべきか。

 

 

そこで誕生したのが、一般意思という考え方です。

もう私たちは平和な世界に戻ることはできませんが、

今の社会においても擬似的に平和な世界を築くことはできます。

誰もが望んでいることを一つ一つ達成していけばいいのでは…?そうしたら平和が築けるのでは…?

と言い出しました。

 

つまり、「みんなが認める事項(=一般意思)」のみを国家によって実現するということです。

 

ロックの主張が「みんなで自分の国家を決めよう」と言っているのに対して、

ルソーは「本来の自由を取り戻そう」と言っています。


本来人間が皆自由であったのであれば、国家はその世界を擬似的に達成すべきと言うのです。

ゆえに、

前者の政治体制は多数決や議会制を肯定するのに対して、

後者は直接民主制かつ全会一致を望んでいたのです。


まとめ 

少し文章が長くなってきたので、まとめに入りたいと思います。

まず3人に共通することは、いずれも、

「仮定(自然状態)」を設定し、

そこから演繹的に理想的な国家を構想したこと。

 

ホッブズは「万人の万人に対する闘争」という仮定から、絶対王政という結論を導きました。

一方でロックルソーは「人は理性によって争いを好まない」という仮定を設定したために、民主主義的な結論を導きました。

 

ただし、2人は目標が異なりました。

ロックは争いを防止することを、ルソーは自然状態に戻ることを目標としたために、

ロックは間接民主制を、ルソーは直接民主制を選択しました。

 

仮定の違い、目標の違いから政治体制が異なっているのです。

 

この思慮の深さからも、彼らが啓蒙思想の影響を受けていることを垣間見ることができます。

 

国家論の行く末

偉大な哲学者が国家の正当性を説いてきたわけですが、

現代ではその論理が通用しなくなっているという現状があります。


そもそもロックもルソーも、絶対的な権力を持っている存在として国家を考えたわけですが、

現代においては国家が絶対的な権力を持っているとは限らなくなっているのです。


それは「国際社会」という存在ゆえです。

 

例えばA国という国家があったとします。

ロックやルソーの論理を取り入れれば、A国が変な行為を起こせば、国内で抵抗権が発動し、その政権は倒れるというものでした。

しかし、今では国連の安全保障理事会が、武力制裁という決議を実行することによってその国家が倒れるという場合もあるのです。

 

1つの国の枠組みで考えることができなくなった今、

ロックやルソーにとって変わる理論が求められているのです。

 

これについて詳しく知りたい方は、国際政治に関する本を読むことをお勧めします。

 

 

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