カントという人
カントは哲学史上最大の哲学者です。
多くの学者が哲学や倫理に関する論文を書く時は彼の著書を参考にしますし(最も頻繁に引用されています)、多くの人が彼の名前を知っているぐらいに偉大な人物です。
けれども彼はどうも説明が下手だったのか、その著書は難解なものとしても知られています。
彼の著書には『純粋理性批判』や『実践理性批判』などがありますが、その本を読んで何かを得るのはすごく難しいでしょう。
(実はこれは翻訳が悪いのではなく、単純にカントの説明力の問題なのですが...)
さて、そんなカントはどんな人物だったのでしょうか。
よく言われるのは、カントは本当に時間に正確な人だったということです。
近所の人はカントがいつ家の前を通るかで時間を計っていたと言われるぐらいです。
次の記事で紹介するのですが、
彼が著した『実践理性批判』は、人はどのように日常を過ごすべきか、というすごく教育的な内容です。
このことからも、「カントさんは本当に真面目」ということがわかるでしょう。
ではそんな真面目なカントさんがどのような偉業を残したのか、それを見ていきましょう。
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合理論と経験論の融合
カントの偉業を一言で言うなれば、合理論と経験論を融合したということです。
合理論は存在の証明プロセスは良いのですが、スタートする仮定があまりにも曖昧すぎる。
一方で、経験論は知覚に基づく証明だからスタートはしっかりしているのですが、そこからの存在の証明プロセスがあまりにも曖昧すぎる。
カントは過去の偉人たちと同じように、合理論と経験論を批判します。
合理論への批判
「理性を使えばなんでもかんでもわかるわけではない」
これがカントの1つ目の攻撃でした。
まず合理論を攻撃します。
「存在とはなにか?」という分析から正しい仮定を導こうと努力をするわけですが、そもそも理性を用いれば必ず答えが出るという考え方が間違っているというのです。
ここで言う理性とは、「真理を発見する力」と解釈することができます。
そして真理を発見するためには、三段論法のように、仮定と論理が必要とされています。
しかし、そもそも正しい仮定を発見することは誰ができるのでしょうか?
「神は存在しないのだから、この世に奇跡などない」
→”神が存在しない”は正しいとは限りません。
「神が存在するのだから、我々はいつか救われる」
→”神が存在する”は正しいとは限りません。
こうなってくると、合理論は成立しなくなってしまう...
合理論の、「仮定を設定して、そこから真理を探求する」というスタンスは本当に正しいのでしょうか?
経験論への批判
「経験だけでは何もわからない。なぜ経験を集めるだけで存在を認識できるのだ」
これがカントの2つ目の攻撃です。
経験論では経験から存在をどのように導き出すのかを議論していましたが、カントはそこでこそ理性が活用されるというのです。
例えば、ロックは複数の感覚をもってして、存在を認識すると言っていましたが、「複数の感覚」と「存在の認識」の間にある論理がすごく曖昧だったのです。
目の前に何か存在している。視覚情報ではそれが”赤い”としている。触覚情報では”固い””丸い”としている。食べてみたら”甘酸っぱい”→「これはりんごだ!」
なんでそれらの感覚の集合が「りんご」という答えを導くのでしょうか?
ロックはそれこそ今までの”経験”から学ぶと答えましたが、そこにはたくさんの反論が...
認識論の、経験をベースに存在を認識する...これは正しいのでしょうか?
カントの答え
よくよく見てみると合理論と経験論は矛盾を生むものではありません。
カントはうまく、合理論の「存在とはなにかを知りたい!」という気持ちと、経験論の「存在ってどうやって認識するんだ!」という気持ちを組み合わせたのです。
というわけで、カントの答えは以下の図になります。
まず経験論に対してはこう答えます。
「感覚を通じて得た経験から存在を認識させてくれるのは、理性のおかげなんだよ」
理性が情報を統合して、「これはりんごだ」という結論を作ってくれるというのです。
確かにロックのいうようにいろいろな経験も大切だけど、何より人間には物事を認識する力(=理性)があるのだと答えたのです。
経験論は理性に懐疑的であったので…これはビックリです。
そして重要なのはむしろこっちです。
合理論に対してはこう答えます。
「存在の根拠?そんなものわからんよ」
なんだか元も子もない答えを突きつけられてしまいました。
代わりに、
「でも合理論は経験から存在を認識するときに必要だよね」
と言ってくれます。
このポイントについては次の章で説明します。
よく、「カントは合理論と経験論を統合した」と言われますが、これは、
合理論の”仮定を設定して存在を決定するスタンス”と
経験論の”経験をベースに存在を決定するスタンス”を融合した
ということなのです。
存在を認識するためのベースは経験ですが、その経験から存在を決定するプロセスにいたっては経験を仮定としてそこから経験を認識しなければならない...
これが、カントの偉業なのです。
批判哲学についてー理性とはなにか?
カントの哲学は批判哲学と呼ばれていますが、何を批判しているのでしょうか?
それは、理性です。
前の章において、「存在の根拠などわかるはずがない」と言ったことは、合理論の仮定の脆弱性を受け入れた発言ともいえます。
主張①を説明するために、仮定①を用いる必要がある。けれども仮定①があやしかったら、それを説明するためには新しく仮定②が必要となる。そしてそれがあやしかったら...いつになったら正しい答えが得られるのでしょうか?
合理論のいう”論理”を用いようとすれば、どうしても真理を得ることができないのです。
結局、本当に正しいことなど、わからないのです。つまるところ、理性には限界があるのです。確かに私たちの世界には論理があり、それが物事に根拠を与えているように感じます。けれどもそれらの仮定が本当に正しいのかはわからないのです。
ひょっとしたら、まったく別の世界の住人は、「1+1=3」になる論理があるかもしれません。そしてそれは私たちが知らないだけかもしれない。
ひょっとしたら、2次元の人間が存在しているのかもしれません。しかし私たちにはその人たちの気持ちはわかりません。それは2次元の人間側が、3次元の気持ちがわからないのと同じでしょう。
全部仮定の話ですが、「ありえなくはない」話なのです。
こうなってくると何が正しいのかわからない。
そこでカントはこう言います。
いいじゃん。私たちは私たちの論理で生きていこうよ
何が真理なのかは決してわかりません。
でもそれでいい。私たちみんなが納得できる(私たちの論理の枠組みの中での)真理を探していこうよ。
これがカントの結論だったのです。
以下はこの話が詳しく書かれている、『純粋理性批判』の原版です。
【+α】カントを題材としたアニメ
これをテーマにした作品として「寄生獣ーセイの格率」というのがあります。このアニメはカントの思想を存分に取り入れています。人間が当たり前だと思うことと、他の生物が当たり前だと思うことが異なるということを実感させてくれるシーンがたくさんありますが、それは人間の理性の限界を突きつけているようでした。カントに限らず数多くのアニメや漫画が哲学を素材にしていたりしますので、そうした点を意識しながらアニメや漫画を鑑賞するのも面白いですよ。
まとめ
カントの言っていることを理解するためには合理論と経験論の概要を把握する必要があり、さらにその差異を把握している必要があります。正直すごく難解ですが、それゆえに教科書のみでは理解できないところがかなりあります。
もちろん生徒も
「カントって結局何をしたの?」
と思っているはずです。
ぜひ、彼らの好奇心を満たすために、当記事を活用してください。
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