戦国の世を切り開いた天才
「歴史が好き」「日本史が好き」という人の中でも、
特に人気を誇っているのが、戦国の世を切り開いた武将・織田信長 です。
時代の流れを変えたカリスマ性や、本能寺の変での悲運かつ劇的な人生の終わり方に、
魅力を感じたことがある講師の皆さんも多いのではないでしょうか。
そんな後世にも語り継がれる織田信長ですが、教科書を検討してみると、
その生涯での動きについては、
- 桶狭間の戦いによって今川義元を打ち破る
- 美濃の斎藤家を打ち破り、勢力範囲を広げる
- 「天下布武」→武力によって天下統一への意思を明らかに
- 比叡山延暦寺の焼打ち
- 楽市楽座令
- 石山本願寺との長きに渡る戦い
がポイントとして書かれています。
これらを読むと、織田信長が本能寺の変で倒れるまでの天下統一過程が読み取れますが、
群雄割拠の戦国時代でなぜそれが可能だったのかということまでは、書かれていません。
実は、この仕組みを紐解いていくと、戦国時代という社会状況の深い部分が見えてきます。
何より、
当時の戦国時代における室町幕府とはどのような存在だったのかを生徒に理解させるには、
織田信長の統一過程前後の動きを深く学んでおくことが必要になります。
上記の問題意識より、本稿では生徒が、
織田信長の統一過程を社会的状況と関連づけてしっかり理解できる
ような内容をお伝えします。
コンテンツ
1.室町幕府の弱体化
2.守護領国制の崩壊
3.戦国大名の支配力
4.頭角をあらわした織田信長~将軍の役割との関連~
1.室町幕府の弱体化
織田信長の天下統一過程を見る前に、まずは戦国時代の社会的背景を確認しましょう。
室町幕府は、鎌倉幕府を滅亡させた立役者であった足利尊氏が初代将軍を務めました。
そして、3代将軍の足利義満の頃には、
京都の北小路室町に「花の御所」という壮麗な邸宅を造営し、全盛期を迎えます。
しかし、その後は、将軍の補佐役である管領に台頭を許し、代を重ねる度に弱体化していました。
1つ1つの詳しい内容は本稿では割愛しますが、
こうした経過の中で室町幕府を弱体化させた最も大きな要因が、
1467年から11年にかけて争われた応仁の乱でした。
これは、管領の補佐役である畠山家の内紛に将軍家の家督争いが絡まって起こった戦いです。
11年にも及ぶ応仁の乱によって、
将軍家は武家の棟梁としての役目を果たすことができなくなり、実質的な支配権を失うことになります。
室町幕府がきちんと機能しているときは、幕府の所在地である京都を中心として秩序が保たれていました。
その京都が戦場となって争いが起こってしまったため、幕府の権力に大きなひずみが生じたのです。
<ここがポイント>
室町幕府は代を重ねる度に弱体化し、応仁の乱によって実質的な支配権を失った
2.守護領国制の崩壊
幕府権力失墜の具体的な内容として、守護領国制から大名領国制への移行がありました。
室町時代、将軍から任命された守護は、
・刈田狼藉:係争中や敵方の田地の稲を刈ることによって取り締まる権利
・使節遵行:土地の争いに関する幕府の判決を、幕府の正式な使いとして執行させる権利
を付与されたことによって、
一国全体の地域的支配権を確立し、守護大名と呼ばれるようになっていました。
(この守護大名による支配体制を守護領国制といいます)
有力な守護大名は、在京して幕府で働き、自分の領土には守護代を設置して職務を担わせます。
京都にいた守護は、職務をこなす役割があり、幕府に仕えるために京都にいました。
しかし、1467年から応仁の乱が起こり、幕府がふた手に分かれて戦いを始めます。
これを目の当たりにした守護は、領国へ帰り守護大名として生き残る道を選びました。
ただし、領国によっては代わって職務を行っていた守護代が支配力を強めたり、
有力国人が力を伸ばしたりしていたため、その支配権を奪われてしまいます。
(※国人・・・その地に住み着いていた有力武士のこと)
中には一向宗の宗徒が100年間の自治を達成した加賀のようなところもあります。
このように、もともと立場的に下にいるものの力が、
上のものの勢力をしのいでいくような現象を下剋上と言いました。
<ここがポイント>
応仁の乱で領国へ帰っても、守護大名が実権を握れないケースがあった
実力のあるものが、立場をこえて実質的な支配権を握る下剋上の風潮が生まれた
3.戦国大名の支配力
こうして、実力によってのし上がったものが、国人たちを家来とすることに成功すると、
各地で支配権を確立した戦国大名が登場します。
(こうした戦国大名による支配を大名領国制と言います)
群雄割拠の戦国時代、戦国大名は周囲の戦国大名と戦い、より強い方が勝ち上がることで次第に領土を拡大します。
広域的な地域を統一するようになると、
その支配範囲の秩序を維持するために法律(分国法)が作られます。
陸奥の伊達氏による塵芥集であったり、甲斐の武田氏による甲州法度之次第などがその代表例ですね。
こうした法整備も整える事で、有力な戦国大名は各地で強い支配力を発揮しました。
なぜこれを本稿で紹介したか。
それは、この後の織田信長、豊臣秀吉による天下統一に大きく関わってくるからです。
よく、織田信長や豊臣秀吉が天下を統一した意義を、
「武士たちが戦いを繰り返してばかりいる無法地帯のような社会に新たな秩序を作り上げた」
と理解してしまう生徒がいます。
戦国武将が戦いを繰り返した乱世であることは間違いありませんが、
天下統一の意義としては、上記の理解では不十分です。
なぜなら、織田信長や豊臣秀吉が天下を統一していくことが出来たのは、
ここまで見てきたように、
「従わせることになる大名が各地ですでにしっかりとした統一権力を確立していたから」
というのが正しい捉え方なのです。
これは戦国時代の分国支配を理解するために重要な視点なので、
是非間違えないように生徒たちに伝えてあげましょう。
※豊臣秀吉についての詳細は、
【日本史講師対象】豊臣秀吉の天下統一過程を専門的に指導する方法
を参照してください。
<ここがポイント>
大名が各地でしっかりとした統一権力を確立していたからこそ、信長や秀吉は天下を統一できた
4.頭角を表した織田信長~将軍の役割~
各地で支配権を発揮する群雄割拠の社会において、天下統一を志したパイオニアこそが織田信長でした。
信長はその支配権を広めていくために、以下のような順番で勢力を強めていきます。
<信長の統一過程>
・1560年 桶狭間の戦い→今川義元を破る
・1567年 美濃の斎藤竜興を滅ぼし、岐阜入城。
・1568年 足利義昭を奏じ京都入り。義昭を15代将軍へ
ここでいったんストップします。
統一過程にもある通り、1560年に桶狭間の戦いで今川義元を打ち破りました。
そして、美濃の斎藤家を従わせることによって岐阜に進出し、次第に京都に近づいていきます。
織田信長が頭角を表している頃、室町幕府の権威はもはや落ちるところまで落ちていました。
13代将軍の足利義輝は、管領の松永久秀に殺害されてしまい、
代わって就任した14代将軍の足利義栄が将軍に就任しても、混乱の続く京都には入ることさえできず、
病死してしまいます。
その足利義栄の弟で興福寺の僧となっていた覚慶という人物がいました。
後の15代将軍、足利義昭です。
還俗して義秋と名乗り、自ら将軍となって室町幕府を復興することを目標にします。
しかし、出家をしていた足利義昭には、それを実行する権力も軍事力もありません。
そこで、自らの目標である幕府復興への協力を各地の戦国大名に呼びかけたのです。
これに織田信長が呼応しました。
足利義昭の京都入りへ、圧倒的な軍事力をバックボーンとして与えることで、
足利義昭は征夷大将軍としての称号を得ることに成功します。
では、一体なぜ足利義昭は将軍という職を手にすることに腐心したのでしょうか。
そしてまた、なぜ織田信長はこれに協力したのでしょうか。
これは以下の2点で説明することができます。
<ここがポイント>
①大義名分が必要だった
当時、統一過程にあるように織田信長は、今川・斎藤という有力戦国大名を滅ぼし、
すでに頭一つ飛び抜けている存在でした。
しかし、そうした軍事力を持ってしても、
将軍を中心とする室町幕府の復興という大義名分が無ければ諸勢力を従わせることができなかったのです。
②将軍という存在の認識
足利義昭が将軍になるために奔走したのも、
戦国の世の様々な勢力を従わせるためには強い将軍が必要と考えている、
かつ、
そういう役割を持っているのが将軍だと考えていました。
まとめ
本稿では、織田信長が天下を統一していく(いこうとする)中で、
一体なぜそれが可能になったのか。
そしてそのプロセスにはどういう工夫があったのかをご紹介しました。
指導のポイントをまとめると、
テーマ:戦国の世を切り拓け!織田信長の壮大な挑戦
◯室町幕府の弱体化
(1)復習
(2)応仁の乱で京都の町が焼け野原
(3)守護大名の生き残り
◯戦国時代
(1)下剋上でのし上がったもの
(2)分国支配
(3)戦国大名の支配力
◯織田信長、天下統一へ
(1)桶狭間の戦いで今川を討つ
(2)美濃の斎藤家を倒し、京都へ近づく
(3)足利義昭、織田信長にとってのメリット
となります。
織田信長の業績について、本稿では少ししか触れられなかったので、
次稿でその点について詳しくご紹介します。
本稿は以上です。
ここまで長文ご精読ありがとうございました!
<参考文献>
・池上裕子『織豊政権と江戸幕府』(講談社、2002年)
・脇田修『織田政権の基礎構造』(東京大学出版会、1975年)
・藤本正行『信長の戦国軍事学』(JICC出版局、1993年)
・勝俣鎮夫『戦国時代論』(岩波書店、1996年)