江戸時代
江戸時代といえば皆さんはどんなイメージを思い浮かべますか?
- 関ヶ原の戦いによって勝利をおさめた徳川家康が開いた幕府の支配体制
- 武家諸法度や禁中並公家諸法度等による徹底した支配体制が完成された時代
- 明治維新が行われるまでの260年に及ぶ平和な時代
などなど。様々なイメージがあると思います。
(↑現在の江戸城跡)
そんな江戸時代ですが、近年この時代に対する見方は変わりつつあります。
これまで、幕末のペリー来航を契機とした明治維新の前後が比較される中で、
明治維新のおかげで日本は近代化することが出来た
という議論が主流でした。
明治維新される前の後進的な時代として、
江戸時代は位置づけられてきたということです。
確かに、
明治時代の政治・経済の仕組みへの転換は、近代的な国家への大きな一歩だったといえるでしょう。
しかし、
スムーズに近代国家への仲間入りが出来た背景としては、
・識字率の高さに表れる江戸の教育力が、西洋の近代的な知識、技術の早期導入を可能としていたこと
・江戸時代に、ほぼ1つにまとまった社会が形成されていたこと
という、江戸時代の社会状況があったことも、事実なのです。
江戸時代の中身についてはこれから詳しく述べていきますが、歴史を教える皆さんには特に、
歴史の連続性を意識した教材研究をしていただきたいと思います。
前置きが長くなってしまいましたが、
本シリーズでは江戸時代をどう捉えるかということも含めて、
江戸時代はどのような社会だったのか
ということを、
生徒がしっかり理解できるような情報をお伝えしていきたいと思います。
コンテンツ
1.江戸時代のはじまり
2.関ヶ原の戦い
3.将軍職の世襲
4. 徳川家からの視点
1.江戸時代のはじまり
それでは、
豊臣政権晩期~江戸時代の始まりを見て行きましょう。
江戸時代のはじまりを理解する上で欠かせないのが幕府を開いた、
徳川家康の存在です。
家康は織田信長の盟友であったため、
一時期は信長の後継者を狙う豊臣秀吉と合戦を繰り広げたこともありました。(小牧・長久手の戦い)
しかし、のちに秀吉の五大老(重要政務を行う役職)の一員として、秀吉の味方となっています。
前稿「【日本史講師対象】豊臣秀吉の天下統一過程を専門的に指導する方法」をご参照いただきたいのですが、
豊臣秀吉は晩年、朝鮮出兵を行っていました。
李舜臣率いる軍隊に苦戦を強いられ、最終的に秀吉の病死によって撤退することになりますが、
この朝鮮出兵によって豊臣政権が弱体化し、さらに、秀吉の武将の間で対立が生じました。
<ここがポイント>
豊臣秀吉の朝鮮出兵をめぐって、家臣内部で対立が生まれていた
2.関ヶ原の戦い
この対立が後の関ヶ原の戦いの遠因となりました。
関ヶ原の戦いといえば、
豊臣側の石田三成と徳川家康による天下分け目の戦いという表現がよくされます。
しかし、本当の対立構図は豊臣VS徳川ではなく、豊臣政権の内部争いでした。
以下の構図を御覧ください。
【関ヶ原の戦い】
○東軍 徳川家康・福島正則・黒田長政・細川忠興・加藤清正
VS
○西軍 石田三成・小西行長・宇喜多秀家・大谷吉継・毛利輝元
ここで、
加藤清正や福島正則が、徳川側についていますよね。
加藤清正、そして福島正則の2人物はもともと豊臣秀吉の忠実な家来でした。
さらに、徳川家康は石田三成率いる西軍を、
「秀吉の跡継ぎである豊臣秀頼への反逆」と定義していることからも、
徳川は豊臣政権の代表者として戦いに臨んでいることが分かります。
結果としては、この後豊臣VS徳川という構造が生まれてきます。
しかし、少なくとも1600年の関ヶ原の戦いでは、
豊臣政権内部での争いだったということをしっかり理解させるようにしましょう。
というのも、下線部をここできちんと理解しておかないと、
その後の大阪の陣の理解にも影響が出るからです。
<ここがポイント>
関ヶ原の戦いは、豊臣政権の内部で生まれた対立が遠因となっていた
3.将軍職の世襲
では、
具体的に徳川家康がどのように、政権の支配者として確固たる地位を築き上げていったのか、
ここから見ていきましょう。
徳川家康は、関ヶ原の合戦から3年後の1603年、征夷大将軍に就任し、江戸に幕府を開きます。
関ヶ原の戦いに勝利をおさめたことで、すでに徳川家康の時代は到来していました。
しかし、徳川家康は権力の固定化をさらに徹底します。
まず、豊臣秀吉が所有していた直轄地を、武家政権の領地(幕領)として没収しました。
さらに、
豊臣秀頼を摂津・河内・和泉三領地六十五万石の一大名へと押しやります。
そして、
1605年徳川家康は手に入れた征夷大将軍を早々と息子の秀忠へと譲りました。
なぜ、征夷大将軍という武家の棟梁の役職をすぐに手放したのか。
それは、
征夷大将軍は今後代々徳川家が世襲していくもの
ということを天下に示すためでした。
より具体化して言うならば、
豊臣家に示すためといっても良いかもしれません。
先述したとおり、
関が原の戦いにおいて、
家康は対する西軍を「秀吉の跡継ぎ秀頼への反逆」と定義していることをお伝えしました。
そうなると豊臣側としては当然、家康が秀頼を正統な跡継ぎと捉えていると思いますよね。
家康が2代目秀忠に早々と将軍職を譲ったのは、
「今後武家政権を支配していくのは豊臣家ではなく徳川家なのである」
ということを間接的かつ大々的にアピールしたというわけです。
<ここがポイント>
将軍を徳川秀忠に譲ったことで、「将軍は徳川家が代々引き継ぐものである」とアピールした
4.徳川家からの視点
征夷大将軍の世襲について、豊臣側の視点をご紹介しました。
それでは徳川家康は、
関が原の戦いで時代を掴んでいたのにも関わらず、一体なぜこれほど豊臣側を警戒していたのか。
これを考えることが大阪の陣につながります。
徳川家は、その政策によって豊臣秀頼を、
65万石の大名に押しとどめても1つの不安がありました。
前掲「【日本史講師対象】豊臣秀吉の天下統一過程を専門的に指導する方法」もご確認頂きたいのですが、
その不安とは”豊臣秀吉のように秀頼が関白となったらどうするか”ということです。
征夷大将軍という官職を持ってしても、
天皇家に最も近しい存在の1つである関白に秀頼が就任したらオセロのように、
パタパタと諸大名が豊臣側に就いてしまうかもしれないという不安があったのです。
さらには秀吉の功績に恩義がある大名たちが大勢いたことも気がかりでした。
こうした背景があったゆえに、
徳川家康にとって豊臣家の存在はどうしてもネックだったわけです。
有名な方広寺鐘銘問題で「国家安康、君臣豊楽」という文字の解釈で、
”家康という文字を安で切り裂き、君臣豊楽は君主としての豊臣が楽しむ”
と無理矢理に捉え、豊臣家を滅ぼす口実としたのには、
豊臣秀頼を筆頭として豊臣家が再び力をつけてくる前に叩いておこうという意図があったのです。
<ここがポイント>
徳川家康は、将軍に就任しても大名たちが再び豊臣家の味方にならないか、懸念していた
まとめ
本稿では、
徳川家康の天下統一過程を専門的に指導する方法をお伝えしてきました。
指導のポイントをまとめると
テーマ:徳川家康の天下統一過程を深く見てみよう
◯豊臣政権とのつながり
(1)朝鮮出兵での対立
(2)関が原の戦い
(3)徳川VS豊臣の戦いではなかった?
◯1605年の将軍交代が意味するもの
(1)家康、わずか2年で将軍職を秀忠へ
(2)将軍家の世襲は何を意味するか
◯徳川家にとっての豊臣家
(1)徳川家の不安
(2)関白という地位と将軍はどっちが天皇に近いのか?
(3)大阪の陣へ
という順番で説明すれば、
徳川家康の天下統一過程を詳しく見ていけると思います。長くなりましたが本稿は以上です。
ここまで長文ご精読ありがとうございました!
<参考文献>
・『徳川幕府のしくみがわかる本』 (別冊歴史読本(96号)、新人物往来社、2002年)
・杉森哲也『日本近世史』(放送大学教育振興会、2013年)
・藤田覚『泰平のしくみ』(岩波書店、2012年)
・笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』(吉川弘文館、2007年)
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