なぜ武家の社会が到来したのか
794年、桓武天皇が平安京に都を移してから迎えた平安時代。
日本では貴族文化が花開きました。
貴族を中心とした政治には、藤原氏の陰謀など時には生々しい権力闘争もありましたが、中世以降に比べて大きな戦乱のない社会を作り上げていました。
しかし、そんな平安時代も半ばにさしかかった頃、坂東の地で大規模な反乱が起こることになりました。
939年に起こった平将門の乱です。
本稿で詳しく述べていきますが、この戦いは、関東地方での1反乱という以上にその後の社会に大きなインパクトを残すことになるからです。
こうした問題意識から、本稿では、
武家社会到来の一因となる平将門の乱とはどういう事件だったのか
ということを生徒がしっかり理解できるような指導法をご紹介します。
平将門はなぜ立ち上がったのか
まず、時代の背景を確認しておきましょう。
坂上田村麻呂などの活躍によって朝廷は蝦夷との戦いに勝利をおさめ、その支配力はより広範囲にすることに成功します。
<参考>
・「【日本史指導法】「古代朝廷はなぜ東北地方を日本にすることにこだわったのか?」」
しかし、その支配範囲が広がるのと並行して、各地の民衆は次第に不満を持っていきます。
こうした不満を結集した中で、平将門の乱は起こりました。
平将門が乱を起こした坂東の地での民衆の不満とはどのようなものか。
以下の3点で説明をすることが出来ます。
①過酷な徴兵
九州の防衛のためにおかれた兵士である防人や、東北地方に住んで朝廷に従わなかった蝦夷という人々の制圧のために朝廷の支配下にある民衆が徴兵されました。
徴兵はその苛酷さに加え、農家の働き盛りな男子が兵力として駆り出されるため、農作物の栽培にも悪影響を及ぼしました。
結果、民衆の不満を高めるきっかけとなります。
②強制移住朝廷は蝦夷との戦いに勝利した後に東北地方、もっと範囲を絞れば陸奥国に民衆を強制移住させる政策を取っていました。
東北地方には金山などの貴重な財源、豊富な農作物を生み出す土壌があると見込んでいたため、開墾にあたる民衆を増やすことにしたのです。
過酷な徴兵に加え、民衆の疲弊・不満はますます進んでしまうこととなりました。
③国司の暴政この時代、国司が暴政を行っていたことが史料などに数多く残されています。
例えばその顕著なものとして、国司がその圧倒的な権力を背景に、民家を襲って食料などを略奪し、民衆の財産をまき上げていたことなどがわかっています。
国司というのは、主に中央から派遣された貴族たちがその職についていました。
そのため、現地に旧来から土着して郡を治めていた地方豪族の郡司と対立することになります。
このような不満を目につけた平将門は、国司の暴政を時には武力を持って食い止め、民衆からの信頼を大きくしていきました。
平将門という人物
こうして、平将門が下総国で立ちあがったのですが、そもそも将門とはどのような人物だったのでしょうか?
まずは、その点から確認しましょう。
以下の系図を御覧ください。
上記の図を見て頂いて分かる通り、もとは桓武天皇5世代後の子孫であることがお分かり頂けると思います。
なぜこの平将門が坂東にいたのか。
それは、平家一族での争いがあったからでした。
平将門の祖父、平高望は上総国に国司として赴任しています。
任期が終わった後も、そのまま上総国に住み続け、その息子らが坂東(関東)各地で勢力を伸ばしました。
平将門は、父良将の死後、良将が治めていた下総国をおじたちが奪っていると聞きつけ、勢力奪還のため下総国へ赴き、戦いを挑みます。
こうして、激しい対立を制した将門がこの後勢力を拡大し、坂東一帯に名を轟かせることになったのです。
ではここから、坂東一帯に名を轟かせる、とはいっても具体的に平将門はこのような時代の中でいかにして台頭してきたのか?
その点について確認していきましょう。
平将門が見た光景
937年、富士山で大規模な噴火によって、坂東の地一帯は深刻な凶作が起こり、民衆は苦しんでいました。
(湖1つ埋まってしまうほどの大噴火だったという史料が残されています。)
前述した3つの要素に加え、「飢餓」というのは民衆の社会への不満を掻き立てるもの、ということは日本のみならず世界各国の歴史からも証明されていますよね。
ただでさえ飢えに苦しむ生活が続く中、国司の横暴によって農民が苦心して築いた農作物はあっという間に取り上げられてしまいます。
国司というのは要するに都の貴族が派遣されているのですが、民衆は国司への不満が高まる一方で、
義を重んじ国司の暴政を武力によって抑えることができた平将門に次第に期待が集まっていったのです。
このあたりのことは、『今昔物語集』にたくさん記述が残っているので講師の皆さんは、ぜひ時間があるときに大学の図書館などを利用して読んでみてください。
その中でも特に代表的なものをここからご紹介します。
場所は武蔵野(現在の東京~神奈川にかけての地域)
939年に富士山の噴火に端を発する凶作で民衆が苦しむうえに、国府の役人が農民の村を襲い、農作物を強引に奪っていました。
こうした国司の暴政に対して、郡司がこれを諫め、止めようとしますが国司との関係がこじれ争いに発展することになります。
繰り返しになりますが、国司は朝廷の貴族が派遣されます。
経済力、軍事力に勝る国司側は争いにおいても圧倒的に有利な状況となりました。
このような状況の相談を受けた平将門は、早速この国司のもとへ自らの軍事力を背景に出陣しました。
しかし、この時の武蔵野国の国司(興与王といいます)は、すでに武名で轟かせていた平将門と力でぶつかりあっても勝ち目はないと判断したのか、戦う前に停戦を申し入れました。
平将門が戦わずして国司の暴政を抑えた、という話はたちまち武勇伝のような形で広がっていきました。
こうして将門はこの地域での支配力、影響力を名実ともに確かなものにしていったのです。
転機
さて、こうして順調に民衆の信頼を集め、勢力範囲も拡大していった平将門でしたが、転機となる場面がやってきます。
それはある人物との出会いがきっかけでした。
ある人物とは、常陸国の豪族・藤原玄明です。
彼は常陸国において民衆から強奪・略奪を繰り返しており、その罪状を追及され、国司から追われる身になっていました。
そんな藤原玄明は、平将門に対して自身の保護を求め坂東の地にやってきたのです。
※先ほどの国司の暴政と混同してしまいそうなので、簡単に解説を加えておきます。
国司というのは時に暴政を働かせ、民衆から略奪をすることがありました。
しかし、私腹を肥やす国司がいる一方で公共事業(Ex.道路の整備、修理など)に必要なお金(=税)を集めるためにどうしてもそのような行為に走らざるを得なかった。
という側面があった、というようにみる研究者もいます。
それの善悪は別として、藤原玄明のような、税を納めさせるためではなく繰り返していた強奪行為とは少し性格が違うものと考えたほうが良いでしょう。
しかし、平将門はこうした藤原玄明を常陸国の国司に引き渡さずに、保護することを決定します。
なぜ平将門が保護したのかについては、『将門記』(平将門側の視点から書かれた史料)から推測するしかないのですが、「藤原玄明のように強奪をする者が現れる社会状況こそ変えなければならない」というように考えていたのではないかと言われています。
藤原玄明を捕えずに保護に置く。
この決断が結果的に、平将門の運命を決めるきっかけとなりました。
戦いの時がやってくる
朝廷から派遣される国司が罪人として追う藤原玄明。その人物を平将門が保護するということは、朝廷に対して歯向かっていることと同じ意味を持つことになってしまいます。
そして、藤原玄明の罪を許すよう国司と駆け引きをしますが、あえなく破断。
対立はいよいよ深刻化し大規模な争いとして表面化することになりました。
ついに939年平将門は下総を根拠地として大反乱を起こします。(平将門の乱)
ここまで述べてきたように、平将門は強い武力をもってのし上がってきました。
その武力を遺憾なく駆使し、常陸・下野・上野の国府(国司の役所)を攻め落とし、東国の大半を占領することに成功します。
平将門はこれらの国府を攻め落としていく過程で、国印を奪っていきました。
国印というのは、国司が作成する文書の証明となる印鑑であり、朝廷の権威が地方に行き渡っていることの象徴でもありました。
そんな国印を奪ったことが朝廷を怒らせ、反逆者であることが決定的になったのです。
しかし、国府を攻め落とすことで勢いにのった将門は、もはや坂東の地を治めるのは天皇ではなく自分であると豪語するようになります。
『将門記』を読んでいくと、このころから将門は自らのことを「新皇」と呼んでいます。
ここまで見てきたように、自ら天皇にでもならない限り、厳しい社会状況を変えることはできないと考えていたためです。
ただ、朝廷を敵に回すのは簡単なことではありません。
反乱の情報を聞きつけた朝廷はすぐさま同じ東国の平貞盛・藤原秀郷に指令を出し、平将門の乱を鎮圧することに成功します。
まとめ
このようにして、平将門の乱は幕を閉じたわけですが、最後にその歴史的意義について言及します。
①武士の実力が知れ渡った本稿では扱えなかったのですが、同じ時期瀬戸内海でも藤原純友の乱がおこっていました。
藤原純友の乱:国司であった藤原純友が、瀬戸内海の海賊を率いて伊予の国府や大宰府を攻略し、源経基
らが鎮圧した事件。
こうした地方武士の反乱は、朝廷や帰属に地方武士の実力を知らしめることとなります。
朝廷は各地で土着的に武士が増えてきているということは把握していたものの、武士が手を組んで反乱を起こせばこれほどの脅威になりうるということが身をもってわかったのです。
結果、朝廷は自衛のための武士を雇うようになりました。宮中の警備を担当する滝口の武士などがその最たる例です。
②地方武士の再組織
また、地方武士の力を知ることによって、それらの力をきちんと再組織するきっかけともなりました。
国の兵として国司のもとで武力の一翼としたり、追捕使や押領使に任命することで治安維持にも貢献させるように仕組みを整えました。
「毒をもって毒を制す」という言葉がありますが、武士の強い力にきちんと正当な役割を与えることで、逆に社会の平穏に利用しようとしたことが読み取れるのです。
こうして見ると、「平将門の乱」は、貴族社会から武家社会への流れを変えた一事件だったということがお分かりいただけたのではないでしょうか。
最後に指導のポイントをまとめると、
テーマ:貴族社会から武家社会へ!そのきっかけとなった平将門の乱とは何か?
○時代背景
(1)過酷な徴兵
(2)強制移住
(3)国司の暴政
○平将門ってどんな人物?
(1)桓武天皇の子孫
(2)なぜ坂東の地にいたのか
(3)坂東の地ではどのように有名になったのか
○平将門、いざ台頭
(1)『今昔物語集』から読み取れること
(2)運命を変えた藤原玄明との出会い
(3)国司に抗うということは・・・
○平将門の乱開幕
(1)3つの国府を攻め落とす
(2)国印を奪う意味とは
(3)鎮圧と歴史的意義
となるでしょうか。
長くなりましたが本稿は以上です。ここまでお読み下さりありがとうございました。