地方のイスラム史 ーイラン周辺とインドー
前回に引き続き、地方のイスラム史を解説します。
前回はエジプト周辺のイスラム史のボリュームが大きかったの対し、
今回はイラン周辺のイスラム史のボリュームが大きくなります。
♦シリーズをおさらいしておこう!
・【イスラム史の理解】”中央”と”地方”に区別せよ!①
→第1弾!王朝の数が多すぎて複雑すぎるイスラム史。けれども、地域ごとにイスラム王朝を分割すると、けわかりやすい!
・【イスラム史の理解】”中央”と”地方”に区別せよ!②
→第2弾!"中央"から離れた各地域におけるイスラム王朝、イベリア半島〜エジプトあたりのイスラム史をわかりやすく解説!
中央アジア〜イランあたり(アッバース朝衰退のころから)
地方のイスラム勢力で少し理解し難い箇所がこの地域です。
というのも、イラン周辺の地域というのは、イスラム勢力の中心地であるイラク周辺とイスラム化が浸透する中央アジアの境目にあるからです。
ゆえに、中央と地方のやりとりがかなり激しく、中央アジアのイスラム化に貢献したサーマーン朝や、中央政権を奪取するセルジューク朝など、かなり活発です。
サーマーン朝
サーマーン朝のプロファイル
【首都】ブハラ
【年号】873~999
【重要な出来事】なし
【重要な内政】 マムルーク軍団の創設
サーマーン朝は一応“朝”がついていますが、どちらかというと藩に近いです。
アッバース朝という体制の中には一応いるのですが、事実上独立しています。
王朝しかやっちゃいけないようなことをサーマーン朝は次々にやりだしたのです。
日本で言えば通貨の発行は日本銀行でないと発行することができませんが、どこかの都道府県が独自の通貨を発行するような感じです。
そんなサーマーン朝はなんとイラクのおとなり、イラン周辺を領土としています。
カラハン朝
カラハン朝のプロファイル
【首都】サマルカンド(西カラハン朝の場合)
【年号】9C~11C
【重要な出来事】トルコ人のイスラーム化
【重要な内政】 なし
カラハン朝はサーマーン朝の北方で建国されました。
9世紀まではサーマーン朝に圧迫されていましたが、10世紀に入るとアフガニスタン方面に誕生したガズナ朝と連合を組み、サーマーン朝を滅ぼすことに成功します。
しかし、11世紀に入ると民族対立から東西に分裂することになります。
それ以降は西カラハン朝の方が優勢だったので、世界史の教科書もそちらにフォーカスされています。
セルジューク朝
セルジューク朝のプロファイル
【首都】不明
【年号】1038~1157
【重要な出来事】主にキリスト教との戦い
【重要な内政】 ニザーム・アル・ムルクによるイクター制(ブワイフ朝のイクター制を少し改造)、ニザーミーヤ学院の創設
セルジューク朝はカザフスタンとウズベキスタンの国境沿いに誕生しました。
セルジューク朝を建設したのはそこにいた遊牧集団でしたが、アッバース朝の影響により彼らもイスラム教に改宗しました。
セルジューク朝はアラル海から中央アジア、イラン、イラクへと勢力を伸ばし、最終的にはアッバース朝の首都を陥落させる(つまりブワイフ朝を滅ぼす)までになります。
また、セルジュークは重要な戦いがかなり多いです。
VSキリスト教
① ビザンツ帝国:マンジケルトの戦いでビザンツ帝国を破る
② 十字軍:ビザンツ帝国の要請により第1回十字軍が結成されます。
当時イスラム世界は分裂状態にあったので、イェルサレム王国の建国を許すことになりました。
ファーティマ朝がイェルサレムを奪回するまで、キリスト教勢力の下にあることになります。
VS他イスラム勢力
① ブワイフ朝:バグダッドを占領し、ブワイフ朝を滅ぼします。
このとき同時にスルタンの座を獲得しました。
② カラハン朝:分裂したカラハン朝はセルジューク朝に圧迫されて、臣従を誓うことになりました。
当時の図版でいえば、中央アジアの左上にカラハン朝があり、それより左下からシリアあたりまでセルジューク朝が伸びている感じです。
しかし、そんなセルジューク朝も内部の抗争で徐々に主体し、最終的にはモンゴル帝国に滅ぼされました。
ホラズム朝
ホラズム朝のプロファイル
【首都】サマルカンド
【年号】1077~1231
【重要な出来事】カラ=キタイとの戦い→ブハラを奪取、チンギス・ハーンに滅ぼされる
【重要な内政】 なし
次に登場するのはホラズム朝です。
ホラズム朝はイラン周辺を支配します。
ホラズム朝とセルジューク朝の関係は、サーマーン朝とアッバース朝の関係に似ています。
ホラズム朝はセルジューク朝の一部のようなものですが、事実上独立したのです。
しかサーマーン朝と違うところは、この王朝は徐々に力をつけてついにセルジューク朝の力をそぎ落としていきます。(一応このときはまだセルジューク朝は生き残っています)。
このころにはイラン周辺を支配する、当時最大のイスラム勢力となりました。
しかしこの頃、すでにモンゴル帝国は動いていました。
モンゴル帝国とは中央アジアのところで領域を接していたのです。
そして1219年、モンゴル帝国が侵攻を開始。1231年にホラズム朝は滅亡しました。
インド北部
インド方面についてはそこまで難しいことはありません。
サーマーン朝がどんどん東に領土を伸ばし、結果的にインドの北側まで占領。
それがインド北方のイスラム化につながったという流れだけを把握しておけば大丈夫です。
ガズナ朝
ガズナ朝のプロファイル
【首都】ガズナ
【年号】955~1187
【重要な出来事】インドのイスラーム化の起源
【重要な内政】 なし
もともとはサーマーン朝のアフガニスタン方面の一部だったのですが、それが段々と自立した王朝です。これの重要性は、インドに侵攻し、インドのイスラム化を進めたことでしょう。
ゴール朝
ゴール朝のプロファイル
【首都】ヘラートまたはゴール
【年号】11C~1215
【重要な出来事】なし
【重要な内政】 ナーランダー僧院を建てる
皮肉なことに、ガズナ朝はサーマーン朝と似た道をたどります。
というのも、ガズナ朝の地方政権に過ぎなかったゴール朝が自立し、それがガズナ朝を滅ぼしたためです。ゆえにゴール朝の領域は、アフガニスタンあたりとインド北方ということになります。
しかしゴール朝の西側にあったホラズム朝に滅ぼされることになりました。
奴隷王朝
奴隷王朝のプロファイル
【首都】デリー
【年号】1206~1290
【重要な出来事】なし
【重要な内政】 なし
インドへのイスラム化は、奴隷王朝という形で残ることになりました。
奴隷王朝を建国したのはゴール朝の将軍であるアイバクという人物です。
アイバクはもともとゴール朝の将軍でしたが、ゴール朝から自立する形で独立しました。
奴隷王朝はホラズム朝にギリギリ吸収されなかったインド北方に成立した王朝です。
ちなみに、この王朝が“奴隷”王朝と呼ばれる理由は、王朝の君主がいずれもマムルーク(奴隷軍人)出身であったためです。
これ以降はイスラムの歴史ではなく、インドの歴史として歩んでいくことになります。
まとめ
3部作となったイスラム史の記事でしたが、いかがでしたでしょうか。
イスラム史を本当に難しくしているのは王朝同士の相互作用の多さだと思います。
例えば、ヨーロッパであれば、フランスの原型がある時期に誕生して、その王朝の大きさは基本的にあまり変わりません。
ただ、イスラム史の場合、
①内部から王朝が誕生する
②外部から滅ぼされる
といった相互作用が激しいために複雑になるのです。
しかし、
地域ごとに歴史を整理する
その王朝がどのあたりを支配しているかを把握する
この2点を抑えておけば理解は一気に楽になります。
しかしこうして見ると、イスラム史は世界史の一部とはいえ、その実体は戦国時代の日本のようなものだとわかるでしょう。
少し視点を変えると、面白い見方ができます。
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