ウィーン体制とは? 〜ウィーン体制の成立と崩壊〜
近代史は世界史の中でも特に覚える事項が多く、国際関係の推移などがとにかく複雑で苦手としている生徒さんも多いのではないでしょうか。しかし、近代史は論理的に理解してしまえば全く難しくなく、むしろ世界史の中でも特に面白い時代だと思います。
今回は、近代ヨーロッパにとって大きな転換点となったウィーン体制についてまとめます。
ウィーン体制の原則は現代国際政治の原点でもあり、現在の国際情勢を知る上でもとても重要です。
ぜひまずは皆さんがしっかりとウィーン体制について理解し、生徒さんなど周りの人にも説明できるようになってほしいと思います!
〜目次〜
- ウィーン会議とウィーン体制:正統主義と勢力均衡
- ウィーン体制の国際関係:”会議は踊る、されど進まず”
英露対立
ウィーン議定書による領土の再配分 - ウィーン体制への反発:革命の第一波(1820〜1830)
自由主義とナショナリズムの波及 - 7月革命:革命の第二波(1830)
ルイ=フィリップは株屋の王!? - 諸民族の春:革命の第三波(1848)
フランスの二月革命
1848年革命の意義:世界史の大きな転換点
ウィーン会議とウィーン体制:正統主義と勢力均衡
時は1814年。
フランス革命とナポレオン戦争によりヨーロッパのそれまでの秩序や国土はめちゃめちゃになり、ヨーロッパは大混乱に陥っていました。
この混乱を収拾するために各国の代表者がウィーンに集められ、ヨーロッパに新たな秩序を築くべくヨーロッパの今後が話し合われました。
これがウィーン会議です。
各国の代表者を見てみましょう。
- オーストリア:メッテルニヒ(議長)
- フランス:タレーラン
- イギリス:カスルリー
- プロイセン:ハルデンベルグ
- ロシア:アレクサンドル1世
さて、一番立場がまずいのはフランスです。
なにせフランス革命とナポレオン戦争の原因はフランスにあるわけで、他の国々から領土の削減や多額の賠償金を要求されても文句の言えない立場にあるわけです。
下手するとブルボン朝の滅亡なんてこともありえます。
これを回避し、なんとかフランスに害を及ぼさないようにするため仏外相タレーランは知恵を働かせました。
そこでタレーランが提唱したのが正統主義です。
正統主義とは、革命前の主権と領土を正統とし、全てを革命前に戻そうという主張のことです。
つまり、フランス革命勃発の1789年からの30年弱の歩みを全てなかったことにしようという主張です。
「悪いのは自由を唱えて暴走した民衆とナポレオンなわけで、フランスだって被害者。今こそ各国の利害を超えて貴族が団結するとき!」
タレーランはこのように主張して、他国のフランスへの敵視を見事そらすことに成功しました。
もう1つ、ウィーン会議で話し合われた重要な今後の方針が勢力均衡です。
ナポレオンのような過剰な他国侵略は禁止し、どこか一国が強大化することはないようにしようというのが勢力均衡の原則です。
こうして作り上げられた国際秩序がウィーン体制です。
ウィーン体制とは一言でまとめると貴族階級による保守反動の復古体制のことで、
キーワードは正統主義と勢力均衡です。
そして、ウィーン体制はフランス革命やナポレオンがヨーロッパ中にばらまいた自由の空気やナショナリズムを上から抑圧することとなります。
ウィーン体制の国際関係:”会議は踊る、されど進まず”
英露対立
ウィーン会議はスムーズに進んだわけではありません。
フランス革命とナポレオン戦争によってもたらされた混乱によりフランスは没落状態。
かねてから何度も戦争や衝突を繰り返しヨーロッパの覇権を争い常にフランスのライバルであったイギリスからすれば、ヨーロッパ1の大国になる願ってもいないチャンスなわけです。
これに対抗したのが後進国としての引け目を常に感じていたロシア。
ロシアは1812年のナポレオンのロシア遠征を挫折させ、ナポレオンの没落のきっかけを作った国としての自負があり、これはフランスをつぶしてヨーロッパの一等国の仲間入りができる大きなチャンス。
こうしてフランス亡き後のヨーロッパではイギリスとロシアが台頭し、バチバチ火花を散らしていくこととなります。
英露対立が今後の国際関係の主軸となるのでよく覚えておいてください。
このような具合で各国が好き勝手自国の利害を主張したため、全く会議が進みません。
ですが、会議に集められたのは貴族や王族、皇帝だったため夜には豪華絢爛な舞踏会が開かれます。
こんな体たらくな状態であったウィーン会議を風刺した有名な言葉が
「会議は踊る、されど進まず」です。
結局ウィーン議定書はナポレオンがエルバ島を脱出し、帝位復帰を果たしたということに慌てて調印されることになりました。
ウィーン議定書による領土の再配分
ウィーン議定書による新たな領土再配分を見てみましょう。
ロシア…フィンランドとベッサラビア領有、さらにポーランド王国を建国、皇帝がポーランド王を兼ねることとなる。
プロイセン…ザクセン地方とライン地方の大半を領有。
オーストリア…ヴェネツィア、ロンバルディアを領有。この地域は未回収のイタリアと呼ばれ、以後イタリアとの軋轢の種に。
イギリス…地中海中央に浮かぶマルタ島をフランスから、セイロン島とケープ植民地をオランダから獲得アフリカからインドへ向かう航路、地中海からエジプトを抜けてインドへ向かう航路の2つの航路の安全を確保するという思惑。
ところで、ウィーン体制を強化、維持するために結ばれた同盟が神聖同盟と四国同盟です。
神聖同盟はアレクサンドル1世が提唱した国際同盟でイギリス、オスマン帝国、ローマ教皇を除くヨーロッパの全君主が参加しました。
これに対抗してイギリス主導で結成したのが四国同盟。
二度とフランスで革命を起こさないようにし、フランスを囲い込むために結ばれましたが、のちにフランスも参加し五国同盟となりました。
ロシア主導の神聖同盟とイギリス主導の五国同盟。
ここにもイギリスとロシアの対立が見て取れます。
ここまで近代西欧の大きな転換点となったウィーン体制の成立について説明しました。
ここからはウィーン体制がどのように動揺し崩壊していくのかを説明します。
そして、ウィーン体制が完全に崩壊し「諸国民の春」と謳われた1848年に注目して解説します。
1848年は、世界史の大きな転換点となる重要な年です。
ぜひこの記事を参考にして生徒さんに「1848年革命」について説明していただければと思います!
ウィーン体制への反発:革命の第一波(1820~1830)
自由主義とナショナリズムの波及
一度自由を知ってしまった民衆たちは当然ウィーン体制に納得できるわけがありません。
1820年代、1830年代、そして1848年の3回にわたって革命の余波が巻き起こり、ウィーン体制は動揺、そして崩壊します。
ウィーン体制を揺るがした各国の革命の余波を順に見ていきましょう。
まずは革命の第一波、1820年代に起きた反乱です。
- ドイツ…ブルシェンシャフト運動
- スペイン…スペイン立憲革命
- イタリア…カルボナリの反乱
- ロシア…デカブリストの乱
これらは全て民衆がウィーン体制を維持する政府に抵抗した自由主義の反乱や運動です。
ですが、全て上から弾圧され失敗に終わりました。
決定的にウィーン体制がほころび始めるのがギリシア独立戦争です。
これにより英仏露が東地中海に進出し(東方問題)、ギリシアはトルコから独立しました。
ここに、初めてウィーン会議後にヨーロッパの領土に変化が起こりました。
メッテルニヒの威信は低下し、ウィーン体制は動揺しました。
七月革命:革命の第二波(1830)
ルイ=フィリップは株屋の王!?
ギリシア独立が国際的に承認された1830年、もう一つウィーン体制を動揺させる大きな出来事が起こりました。
それがフランスの七月革命です。この革命の第二波を見ていきましょう。
革命の第二波、1830年代の諸革命で大きなものがフランスの七月革命です。
ウィーン会議以後、フランスではブルボン朝が復活し時代錯誤の復古王政、反動政治が行われましたが、フランス国民が国王に明確なノーを突きつけました(七月革命、七月王政の誕生)。
こうして立てられた新たな王がルイ=フィリップ。
彼はブルジョワジー、つまり有産階級の出身で、早い話がお金持ちです。こうしてフランスは国王や貴族の支配からブルジョワが支配する国となりましたが、一番貧しい人たち―フランスにたくさんいる農民など―は無視された政治が展開されます。
これでは何のために革命を起こしたのやら。こんなルイ=フィリップを揶揄した言葉が冒頭のタイトルです。
七月革命の影響は各国に伝播します。
- ベルギーのオランダからの独立
- ロシアの属領となったポーランドでの独立運動
- ドイツ各地での反乱
- イタリアではマッツィーニが主導となり青年イタリアが結成
- イギリスでは第一回選挙法改正
これが革命の第二波です。
諸民族の春:革命の第三波(1848)
フランスの二月革命
1848年、それ以前の凶作や経済恐慌を背景に革命の第三波がほぼヨーロッパ全域を捉え、ウィーン体制を完全に崩壊させることとなります。
七月王政下のフランスでは選挙権拡大の要求を中心に共和派や労働者による政治運動が高揚していました。政府がこの運動を弾圧するとパリ市民が蜂起し市街戦となり、国王ルイ=フィリップはイギリスに亡命。
ここに七月王政は打倒され、臨時政府が樹立し第二共和制が成立しました。
これが二月革命です。
これに共鳴するように起こったのがオーストリア、ウィーンでの三月革命で、これによりメッテルニヒが追放。
ここにウィーン体制が完全に崩壊を迎えました。
ハンガリーではコッシュート指導により民族運動が展開、ベルリンでも三月革命が起きフランクフルト国民議会が開催されました。他にもポーランド、ベーメン、イタリアでも民族運動が展開されます。
まさに諸民族の春が到来したかのように思われました。
しかし、これらの運動の多くがまたもや上からの弾圧に屈してしまいます。
ですが、ヨーロッパに一度ばらまかれた自由やナショナリズムの空気はウィーン体制で押さえ込むことは到底不可能であったことがここに証明されました。
1848年革命の意義:世界史の大きな転換点
各国の指導者は、政治がもはや民衆の意向を無視して行うことができないということを悟り、普通選挙の広まりやジャーナリズムが発展します。
封建的な貴族や王族と市民層の対立という従来の構造に代わり、表れたのが
産業資本家(ブルジョワジー)と労働者(プロレタリアート)の対立です。
民族独立、国民国家の建設という形ではっきり表れたナショナリズムとそれの裏返しである民族対立や民族問題。
そして社会主義の台頭。
これら様々な要素がまさに1848年前後に現れ、まさに1848年は世界史の大きな転換点となるのです。
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