中国史概観、今回は隋と唐の時代に絞って紹介します。隋と唐が繁栄した6世紀~10世紀の中国は古代の中華帝国の総まとめとも言える時代で、東方の世界帝国として、また東アジアの中心として非常に繁栄しました。またこの時代、東アジアの多くの国々は中国を手本としました。日本ではこの時代は飛鳥時代、奈良時代、平安時代にあたり、聖徳太子といった皇族や天皇、貴族たちが中国を手本に政治や国家作りを行っていた時代です。遣隋使、遣唐使といった言葉は日本史を深く学習したことがなくても聞いたことがあるのではないでしょうか。この時代の中国史を学ぶことは古代の日本史の理解にとても役立ちます。つまり、日本史、世界史選択者にとっては二度おいしいということになるのです!ぜひ隋、唐の律令システムを理解して古代の東アジア史を概観してみましょう。
秦の再来!?隋の中国統一
ときは魏晋南北朝時代、中国ではおよそ300年間にわたり分裂が続いていました。異民族王朝が栄えた北朝、貴族文化と貴族政治が栄えた南朝といった具合に、南北統一が実現されないまま何年間も過ぎていきました。そのような状況の中で中国を統一したのが鮮卑族の良家の出であった楊堅です。楊堅は581年に南朝の陳を征服し、589年に中国統一を果たします。これが隋王朝です。楊堅は秦の始皇帝のようにばらばらだった中国を統一し、強力な中央集権国家を築きました。
さて、隋の時代に今後の中国の社会制度の柱となる3つの制度(土地制度、税制、兵制)が確立しました。それが均田制(土地制度)と租庸調制(税制)と府兵制(兵制)です。均田制とは、国家が人民に土地を分配するという制度です。日本史で言う、班田収授法や口分田制と全く同じです。
租庸調制も、日本史の租庸調制とほぼ同じです。国家が土地を平等に配るので、その見返りとして国家のために農作物や布を納めたり労働をしたりしてください、ということです。府兵制は、均田制の見返りとして税を払う代わりに一定期間兵隊として軍事にあたってくれという兵農一致の徴兵制のことです。このように、均田制、租庸調制、府兵制は1セットで土地を仲立ちとして国家と人民を結びつけた制度のことです。また、前回紹介したように、官吏登用制度として九品中正法に変わり新たに科挙を始めました。試験による実力主義で官僚を選ぶようにしました。これにより上級貴族による高級官職の独占を防ぐとともに、皇帝権力の増大を図りました。
短命に終わった隋:第2代煬帝の治世
このように中央集権国家のシステムを整え中国に久方ぶりに大帝国を築いた隋でしたが、第2代の煬帝の時代に農民反乱を招き滅亡してしまいます。何が起こったのでしょう?ちなみに煬帝の「煬」の字は「馬鹿野郎」という意味があり、「ようてい」ではなく「ようだい」と読みます。後世の人から蔑称でよばれたように、この皇帝の治世は初代の文帝に比べれば悪政というほかありませんでした。まず行ったのが大運河の建設。華北(中国の北)と江南(中国の南)を結ぶ広大な大運河です。この大運河は後の中国の発展に大きく寄与するのですが、建設に動員された農民からすると「なぜ皇帝はこのような大運河を作らせるのだろうか」と疑問や不満がたまっていきます。この大土木事業の不調に加え、外征の失敗が重なりました。煬帝は突厥(遊牧民)への攻撃と高句麗への遠征を計画します。突厥攻撃は成功するのですが、高句麗への遠征はほぼ全滅を3回繰り返すという始末。これらに重税も加わったため農民の怒りは爆発しました。618年に各地で農民反乱が勃発し隋は滅亡しました。
・中華帝国の頂点!?唐王朝の成立
短命に終わった隋に変わって中国を統一したのが李淵、李世民親子です。
特に李世民の治世の時代は「貞観の治」と呼ばれ、唐の最盛期となるとともに後の中国の治世のお手本とされました。
そんな唐の政治体制ですが、隋の時代に確立された中央集権体制をさらに推し進めたものでした。
律令格式という法典を整備し、中央では三省(中書省、門下省、尚書省の3つで政治にあたる)、六部(三省の決定方針の実行部隊)、御史台(官吏の監察)を整備して中央官制を整えました。
社会制度はお馴染みの均田制、租庸調制、府兵制の3点セットを引き継ぎました。
そしてこれらを実行するために本籍地で戸籍台帳と租税台帳を作成しました。このように唐の政治システムは一言でまとめると中央集権体制と法治主義です。唐の時代に皇帝を中心とした強力な中央集権システムが完成し、他の東アジアの国々は唐の進んだ社会システムを参考にするためにこぞって長安に使節を送りました。日本からも使者が送られました。これが有名な遣唐使です。
最後にまとめとして、なぜ隋と唐王朝で律令体制が完成したのかというと、多様な民族を統合し広大な国土を統治するには皇帝1人の統治能力では限界が生じるので、普遍的かつ合理的なシステムが必要となるからです。
中国に限らず、たくさんの地域や民族を一つに統合するには統治される人々全員が納得するような強固なシステムが求められます。また帝国が長く繁栄するためには為政者の能力に大きく依存することがない、つまり早い話が誰が統治してもうまくいくような統治システムが不可欠となるのです。
唐は律令体制というシステムによって長い繁栄を享受しました。しかし、世の中や社会は絶えず変化するので一度築いたシステムがずっと最適であり続けるということは有り得ません。必ず綻びが出てくることとなります。永遠に繁栄が続くと思われていた唐も、やがて崩壊の時を迎えます。唐末の社会にどんな変化が生まれたのが、また為政者たちはその変化に対しどのように対処したのか、あるいは対処しなかったのかを次回は見ていく事としましょう。
唐が滅んだ10世紀初頭、東アジア世界は激動の時代を迎えることとなります。それまでの東アジア世界の親玉であり中心であった唐が滅んだのですから至極当然のことです。この時代の東アジア世界では中国社会の変化、朝鮮やタイ、ベトナムなどでの新たな国々の勃興、北方民族の台頭など新たな動きが各地で見られるようになります。この流れは日本においても例外ではありません。日本では律令体制が機能不全を起こし、律令体制に代わる貴族政治が繁栄することとなります。このように唐が崩壊して激動の時代を迎えた東アジア。律令体制という政治システムを完成させ磐石と思われていた唐にいったい何が起こったのでしょうか。今回と次回の2回にかけてそれを見ていきましょう。
唐王朝の最初の動揺:武韋の禍
唐王朝の最初の動揺期は意外と早く訪れます。
3代皇帝高宗の死後、建国からまだ100年経ってもいない頃に政治が一時混乱します。それが武韋の禍です。高宗の死後、妻である則天武后が政治を始めます。ちなみに則天武后は中国歴代皇帝の中で唯一の女帝です。
周を理想視して封建制度復活を目論む彼女は、科挙官僚の支持を集めて自らの権力基盤を確立した後になんと実際に周を建国してしまいます(690~705)。
則天武后が病気がちとなった晩年にクーデターが起こり再び唐が復活しますが、則天武后の死後も混乱はまだ続きます。則天武后が廃され中宗が皇帝となりますが、中宗の后が韋后です。
彼女は夫である中宗を暗殺し、自らが政治の実権を握りました。しかし間もなく玄宗が政変を起こし、この混乱は収束します。
このように、則天武后、韋后という二人の女性によって唐王朝の政治は一時期大変な混乱を見せます。これを女性二人の頭文字をとって「武韋の禍」と呼びます。しかしながら先の玄宗皇帝による治世で再び中国政治は安定します。これが後世にも政治の手本とされる「開元の治」です。
玄宗皇帝による治世~楊貴妃と安史の乱~
武韋の禍を克服し、再び中国政治を安定の方向へと導いたのは玄宗でした。
彼の治世の前半部分は開元の治と呼ばれ後の善政のお手本とされます。
玄宗皇帝は節度使と呼ばれるいわば国境警備隊を強化し、異民族の侵入に備えました。
こうして異民族の侵入がない平和な時代が実現しました。
しかし、前半までは善政を行っていた玄宗皇帝ですが、後半はダメな皇帝となってしまいます。
そして唐王朝の衰退にとどめをさす大乱を巻き起こしてしまうのでした。
玄宗皇帝の堕落の原因は非常に有名な女性が原因でした。世界三大美女と呼ばれる楊貴妃がその人です。
玄宗皇帝は楊貴妃を非常に寵愛し、それに伴い政治がおろそかになってしまいました。
この隙に付け込んだのが楊貴妃の親戚であった楊国忠という男。彼が政治の実権を握るようになり、この時代には皇帝権力も権威も著しく下がってしまいました。この事態に大変怒ったのが節度使の長官である安禄山と部下の史思明。
彼らが蜂起するとたくさんの節度使が楊国忠らに対して反旗を翻し、大規模な乱へと発展しました。これが中国史上に名高い安史の乱です。
乱の最中、反乱軍は玄宗皇帝と楊貴妃を捕えることに成功します。安禄山は玄宗皇帝にこう問いただします。「お前は唐の将来と楊貴妃のどちらをとるのか?」と。玄宗皇帝は泣く泣く唐を立て直すことを選択し、あれほど愛していた楊貴妃を手にかけ、楊一族を政治の表舞台から消し去ったのでした。このときの玄宗皇帝の苦悩と愛惜が「長恨歌」に描かれています。玄宗皇帝と楊貴妃の世紀の恋愛のクライマックスが、まさに悲劇であったのです。
玄宗皇帝は改心したのですが、安史の乱は終わりません。この乱には略奪目的のどさくさ紛れで参加している者たちもいて、農民に配慮のない遊牧民らが土地を荒らしまくりました。安禄山と史思明も長安を占領したもののその後の構想もノウハウも何も持ち合わせていないので、やけっぱちになり求心力を失っていき、やがて殺害されてしまいます。戦乱は続いているのに、もはや敵も味方も何のために戦っているのかわからない。安史の乱は泥沼の状況に陥り、唐は異民族であるウイグルの援軍の力を借りてようやく収まりました。755年から763年の9年間にかけて中国全土を泥沼に引き込んだ安史の乱によって土地は荒廃し、もはや過去の栄光は見る影もないほど農地は荒らされ都市は荒廃し、唐の繁栄の時代は終わりを告げました。
図:能楽図絵:『楊貴妃図』(月岡 耕漁作)
楊貴妃が日本の文化にも大きな影響を与えたことがうかがえます。
安史の乱後の唐
安史の乱後、唐はどうなってしまったのでしょうか。
皇帝は乱の平定に異民族の力を借りるという「禁じ手」(これ以前にも、そしてこれ以後にもたびたび同様の「禁じ手」を使ってしまいます)を行ってしまい、ウイグルが万里の長城の内側で大手を振って暴れ回るようになります。
国もこれを止める力をもはや持っていません。さらに皇帝権力が低下したことによりその側近である宦官や外戚が台頭するようになり、さらに権力を増して藩鎮と呼ばれるようになった節度使たちも好き勝手し放題でした。こうして唐末期はウイグル、宦官外戚、藩鎮、そして貴族が互いに相争うまさに混沌とした事態を迎えてしまうのでした。これに伴い、社会の在り方やシステムも大変換を余儀なくされます。
いかがでしたか?これで中国史、特に唐の衰退期までを概観することができました!世界史の内容は大分思い出せたでしょうか?