仏教の難解さ
これまで、世界3大宗教シリーズとしてキリスト教、イスラム教そして
拙稿「宗教をわかりやすく教えるために」(URL:http://www.juku.st/info/entry/738)
も含めると、ユダヤ教も解説してきました。
本稿では、世界3大宗教の最終編として仏教を解説したいと思います。
高校もしくは中学の公民などで宗教単元を担当した講師の方もいらっしゃると思うのですが、
おそらく、この仏教がこれらの宗教に比べて最も教えるのが難解だったのではないでしょうか?
というのも、この仏教はユダヤ教における『旧約聖書』、キリスト教における『新約聖書』、イスラム教における『クルアーン』のような根本となるものがないからです。
もちろん、キリスト教にも正統と異端のせめぎあいがありますし、イスラム教においてもシーア派とスンニ派のような勢力争いはあります。
ただし、その根本にあるのは、「一神教」つまり、造物主がこの世界を作り上げ、それを信仰するのだという部分はユダヤ教もキリスト教もイスラム教も同じです。
問題はそれをどう”解釈するか”が火種となってきたわけです。
後々詳述しますが、おそらく、仏教の開祖である「ゴータマ・シッダールタ」(=釈迦)がこの時代にタイムスリップしてやってきたとなると自身が開いた仏教の教義の変容に驚くのではないかと思います。
仏教というのはそれほど宗派が幅広く、そもそもの根本となる部分も各宗派によって違うので、
「”仏教”を学びました」というのが具体的にどこからどこまでを指すのかが極めて曖昧なのです。
そういうことから、仏教を教える際には、大乗仏教と上座部(小乗)仏教の違いなどの各宗派の考え方の違いにまで視点を広げなければなりません。
本稿では、そうした宗派の分かれ目にも留意しつつ、具体的に講師が知っておきたいことについて言及していきます。
根本教典のない宗教
さて、冒頭でも少し触れましたが仏教には根本経典がありません。
『新約聖書』という根本教典を持つキリスト教ですら、現在600以上の宗派があるくらいですから、
これを持たない仏教が多くの宗派に分かれてしまうというのはある意味当然と言えるでしょう。
つまり、解釈に対して仏教はキリスト教やイスラム教よりもかなり自由な宗教です。
仏教の起源の場所であるインドですら、すでに釈迦の教えとかなり変わっています。
仏教についてある有名な比喩があります。それは、
「仏教の悟りは1つの山のようなもの。山であるのならたくさんの登山口があっても良いはずである」
というものです。これはまさに、悟りを得るにあたっての自由さを認めているものですよね。
それゆえに、地域的な変遷の影響が色濃く出ているのです。
なので、仏教のことを考える際にはまず開祖である釈迦の説いた仏教はどのようなものだったのか。
そこから話を始めると良いと思います。
釈迦の出家:「四門出遊」
まず、授業で仏教について学ぶには開祖である釈迦の生い立ちを説明しましょう。
釈迦というのは紀元前5世紀くらいにインドに生まれた実在の人物です。
本名は「ゴータマ・シッダールタ」といいますが、本稿では以下「釈迦」とさせていただきます。
釈迦は王子という身分で生まれました。貧富という観点で考えれば非常に有利な家庭に誕生した
ということです。
しかし、後に彼はこの家を出家します。
その理由が有名な「四門出遊」という言葉で語られています。
釈迦が王宮の4つの門から出ようとする際に、4つの苦しみに出逢うエピソードです。
その4つの苦しみとは以下の「生老病死」ですね。
①生きることの苦しみ
②病むことの苦しみ
③老いる事の苦しみ
④死ぬことの苦しみ
各4つの門にはこれらで苦しんでいる人がいました。そして、こうした光景を目の当たりにしたことから
彼は世の中というのは実は「空しい」のではないか?と疑問を持ちます。
そこで、王宮の中で見られないことをもっともっと見てみたい。というような動機から宗教的修行者となって、家を出てみようと決意したのです。
釈迦の悟り「無常」
釈迦の悟りは、人生というものは「無常」であるというものです。
この「無常」というものに関してまずは生徒に「昔も今も何も変わらないものは何でしょう?」
と問いかけてみると良いかもしれません。
生徒たちは、なにかあるはずだ、何とか見つけてやろうという気持ちで色々考えてくれます。
読んでいただいている講師の皆さんにも考えていただきたいのですが、時間を超越して何も変わらないもの
は何かあるでしょうか?
新しいものは時を経れば古いものとなります。人間も他の全ての生き物も仏教の言葉を借りれば
1日1日「老いて」いますよね。つまり人間社会において「常」に変わらないものは「無」い。
これが「無常」ということです。
そして、この世は「無常」であるがゆえに人間は先程述べた「生老病死」の苦しみを味わうことになる、という考え方です。
お墓≠仏教?
仏教の目指すものを考える際には、まずは死生観から考えてみましょう。
仏教ではこの世の中の生き物は絶対に死なないのだと考えます。
それは何故か?これは生きている間の行いによって常にどこかの世界(同じ場合もあります)に生まれ変わるという考え方があるからです。
基本的によい行いをしていたらよい世界に生まれ変わり、悪い行いをしていたら悪い世界に生まれ変わる。
イスラム教、キリスト教にもあるような「最後の審判」と似ていますよね。
そして仏教では、生まれ変わる世界にはランクがあり、それが「六道」と呼ばれる以下の6つです。
①天上界
②人間界
③修羅道
④畜生道
⑤餓鬼道
⑥地獄
人間は決して死なず、この六道を輪廻する。これを「輪廻転生」といいます。
先ほど「四門出遊」での死への苦しみと矛盾するのではないか?と思われるかもしれませんが、
先程のは六道②の人間界の中での話を指しています。
そこで、生徒に、おそらく一度は経験している「お墓参り」のことについて考えてもらいましょう。
もうここまでの内容でお分かりだと思うのですが、このお墓というのは「仏教」の根本となる部分からは
外れていますよね。今述べたように、仏教では(人間界において)亡くなると、生前の行いによって
「六道」のいずれかに生まれ変わることになります。
しかし、お墓というのは亡くなった方の遺骨を納めています。お盆の際でもそうでない時も
お墓参りに行くなど、「亡くなった人」の居場所という役割があるのです。
ここに矛盾があるわけですが、実はこれは「儒教」の影響が強いのですね。
また、「儒教」については別記事でご紹介しますが、部分的であれど他教との「融合」がある。
ここに、仏教の柔軟性を垣間見ることが出来ます。
大乗仏教と上座部(小乗)仏教
釈迦の死後インドにおいて、仏教の教団は大きくに2つにわかれました。
それが「大乗仏教」と上座部(小乗)仏教というものです。
※小乗というのは差別的な意味が含まれるので現在は上座部と読んでいます。
上座部仏教というのは、基本的に長老たち=「上」の方に「座」っている人の考え方という意味なのですが、
基本的にこちらでは悟りを得るためには一人ひとりが出家して修行しなければならないと考えます。
釈迦の考え方は仏教とは自分が仏になるためにはどうすればよいかを突き詰めていました。
故に、釈迦の考え方に近いのはこちらの考え方です。
しかし、それだと出家をしない人は救われないのではないか?
皆が出家をして仏教に走ってしまっては当然社会は成り立たなくなります。
そこで現れたのが「大乗仏教」です。
「大乗」というのは大きな乗り物の意味で、「皆を救う仏教」というのがあるはずだという考えを軸にしています。
さらに細かく言うと、上座部仏教は南伝系と言い、インド、タイ、ビルマと伝わっていきました。
そして、大乗仏教は北伝系と言い、シルクロードを通り中国、朝鮮、日本と伝わっています。
現在日本には主な仏教宗派は13あるのですが、主な系統としてはこの大乗仏教の影響を受けた宗派というわけです。また、日本仏教についても詳しく別記事でご紹介したいと思います。
まとめ
ここまで、仏教の教義の根本部分について説明してきましたが、いかがだったでしょうか?
仏教にはまだまだ奥行きがあるのですが、生徒が習う際には根本部分である釈迦の「四門出遊」
のエピソード部分やどのように枝分かれをしてきたのかを説明したのは
日本の仏教を辿って行くとどこにたどり着くのか、そしてどのような経路で日本に来たのか
生徒たちが3大宗教の中で最も肌身で感じることの多い日本式仏教を相対化することで
よりこの仏教の魅力に触れてもらいたいと思い、本稿を執筆してきました。
繰り返しになりますが、日本式仏教については、また近々別記事を立てていきたいと考えています。
世界3大宗教シリーズは以上仏教編をもって終了です。
世界3大宗教の根本部分についていずれも書いてきましたが、記事を通して少しは各宗教の魅力について
触れられたかと思います。
国際社会に生きる生徒にとって、今後宗教への知識は必要不可欠なものとなるはずです。
そうした点からも、こうした3大宗教を信仰している人たちは何を信条としている人たちなのか。
宗教教育を通して伝えなければならないと思うのです。
本稿が指導の際のお役に立てたら幸いです。
以上です。ここまで長文ご精読ありがとうございました!