世界史でも初期に学ぶ古代ギリシャについて、細かいことにそこまで捉われず重要な大枠を把握していきましょう。とにかく世界史では「大枠を把握してその上に固有名詞を載せていく」イメージで勉強させるようにしましょう。今回はアテネに注目して見ていきます。
貴族政時代のアテネ
この時代のギリシャにできていた都市国家、ポリスについてアテネを考える上で重要な点に絞って見てみましょう。紀元前8世紀頃のポリスは最初の王による支配から貴族による支配へと変わっていきました。貴族とはこの場合「自ら土地を所有し、自費で武具を用意する戦士」ということで政治参加していました。これが重装歩兵の密集隊戦術(ファランクス)が優勢になってくると、平民たちも戦争に参加し参政権を求めていくようになるというのが大まかな流れです。つまり重要なのは、「財産を持っていることが"市民"たる条件であり…①、政治参加するためには義務(戦争参加)を果たすことが必要だった…②」ということです。さあそれでは本題のアテネの政治に焦点を当てましょう。
ソロン、ペイシストラトス時代
まずは教科書ではよく「調停者」として紹介されているソロン(右の写真)の政治です。本当に「調停者」と称されるほど彼の政治は民主政への貢献が大きかったのでしょうか?彼がしたことは"債務の帳消し"でした。確かにこれによって平民の奴隷への没落は防がれました。(前述の①の条件)しかし、さらに彼がしたのは「血統ではなく財産額によって市民の政治的権利・義務に差をつける」ことでした。これは当然財産によって政治参加を左右させる、ということなので全く平民の政治参加は進まないわけです。ですので「調停者」と言われるほどには民主政治に貢献したわけではない、と少なくとも筆者は考えています。
次にペイシストラトスの時代ですが、ここは正直そこまで重要な箇所ではないので(笑)軽く触れるにとどめます。彼は独裁者となって僭主政を開始しました。当然民主政治には逆行するわけですね。
クレイステネス時代
彼は「それまでの血縁的な部族を解体して新たに人為的な部族を創設し、政治・軍事の単位とした」ことが重要です。(『新詳世界史B』 帝国書院から抜粋)政治参加に財産が関係ない、ということになるので当然民主政に貢献します。また僭主の出現を防ぐために、陶片追放の制度も開始しました。陶片追放とは、僭主になる恐れのあるものを人民による投票で選んで10年間国外追放するというものです。投票の際に陶器のかけらに名前を書いて投票することから「陶片追放」という名前がつけられました。民主政治への進歩、という意味ではソロンよりむしろクレイステネスの方が断然大きな意義を有していた言えるでしょう。
民主政治の進展と限界
アテネの民主政の進展
1つ上の「貴族政時代」の箇所でクレイステネスが民主政治への大きな貢献をしたと書きました。その後民主政治がアテネで完成していったのは何と言ってもペルシャ戦争の影響が大きいです。このペルシャ戦争の中でもサラミスの海戦が特に重要です。それまで自費で武具を調達できないために戦争に参加できなかった無産市民たちが、軍艦(それも三段櫂船)の漕ぎ手として活躍しました。結果的に上で紹介した条件②を満たすことになったので、参政権を得ることができ民主政治が完成するのです。こうしてペリクレスの指導の下で徹底した民主政が実現します。国政の最高決定機関である民会に成年男子市民全員が参加する直接民主政が行われる。執政官や法廷の陪審員も全市民から抽選で選ばれる。この「抽選で」という箇所が重要です。まさに財産など関係なく平等に選ばれていることが分かります。少しおまけですが先ほど紹介した「無産市民」という概念に違和感を覚えませんか?というのも条件①にあるように、そもそも市民であることの条件が「財産を持っていること」であり無産であればそもそも市民ではないと言えそうです。この「無産市民」というのはソロンの頃から生まれた概念で、彼が債務の帳消しを行ったことで「無産でも奴隷に転落しない人」が作り出されたわけです。
アテネの民主政の限界
このように絶頂を極めた民主政治であったわけですが、限界も一方でありました。それは奴隷や女性の存在です。成年男子市民が全員直接政治に参加するわけなので、一体経済的な側面は誰が支えているのか?という話になります。そしてそれが奴隷や女性たちでした。彼らは家(オイコス)の中に閉じ込められ、生産活動に専念していました。そしてこのように政治的なことを行う主体と経済的なことを行う主体が峻別されていたために、市民をあまり拡大できないという面がありました。だから市民権も「両親とも市民身分の18歳以上の成人男性」にしか与えられないわけです。実はアテネの民主政は大分閉鎖的だったということが分かりますね。ちなみにこの時代のオイコスとポリス、つまり家と政治を峻別するような民主政を模範にしていた思想家がアーレントです。彼女は「全体主義に陥らないように」という問題意識からどのような政治が理想的かの理論を立てており、その時にモデルとした政治体制がこの時代の直接民主政でした。興味のある方はぜひ調べてみてください!
民主政治の崩壊
そんな絶頂を極めたアテネ民主政も崩壊に向かっていきます。ペロポネソス戦争、シチリア遠征など長年の戦争によってアテネ内部の農地も荒廃していきました。すると今まで市民を支えていた経済的条件がそもそも崩壊してしまうわけです。こうして市民を脱落していく(①の条件)人が増えると傭兵の雇用が増加します。しかし、この「傭兵の雇用」は根本的に民主政の終わりを告げているわけです。なぜなら、アテネでは「戦争に参加した人が政治参加する」という大原則があったからです。これはポリスへの帰属意識を失わせることにつながり、民主政も終わりを迎えていくわけです...