情報とは本物と認知の間にあるもの
情報に関連するテーマは本当に多様です。インタネット、テレビ、マス・コミュニケーション、データベースなどなど…
近年では統計学が流行し、情報をどのように処理するかの関心は過去にないほど高まっているといえるでしょう(私自身、流行にのって統計学をかじったことがあります)。
さて、情報を考えるときにはいくつかの視点が必要になってきます。
① 情報そのもの
② 情報の経路
③ 情報の処理
この中で生徒や講師にとって馴染み深いのは②でしょうが、情報について深く考えようとすると①や③を忘れることはできません。特に昨今では「そもそも情報ってなんだ?」といった問いかけが多くなってきています。私たちが生きている社会が、情報社会というのであれば、それについて一つ、考えてみませんか?
今回は情報を歴史風にまとめることにしました。
現代社会は情報社会と言われますが、それがどのように発展してきたのかを見てみましょう。
情報そのもの
情報とは何から生まれるのでしょうか?本来、情報はこの世界に存在し得ないものです。あるものは単に原子によって構成された物質とそれらの関係性のみです(恐竜が栄えていた時代に、“情報”は存在しているといえるでしょうか)。
情報とは人間が生み出した産物といえます。数字という概念も、言葉や文字も、情報に関するものは人間が生み出したものなのです。
情報とは、人間の認知の対象
少し小難しくなってきましたので、簡単に例を出しましょう。
「あなたはりんごを知っていますか?」
おそらく多くの人はYESと答えます。しかし、りんごについての全てを語ることは誰もできないはずです。りんごは何科?原産地は?りんごにまつわる神話を全て言える?
こういった、どうでもいいことを人間は知り得ないのです。しかし、私たちはりんごを知っています。
果物、赤い、丸い、重い…
そう、私たちはりんごの全ては知らなくとも、その一部である“情報”については知っているのです。りんごを五感で感じたことがあるからには、五感によって得た情報を私たちは持っています。
けれども、りんごの全てを知らない。りんごの本質を知らないし、りんごを語ることもできないのです。
私たちは存在そのものについて知り得ることはできません(認知はできるかもしれませんが)。私たちは、「りんご」という本物から派生して誕生した情報を認知することで、その存在を理解することができるのです。
情報と”本物”
そうなるとどうなるか。私たち人間は、現実を知ることができないということになるのです。現実から派生して生まれた情報しか私たちは認知できません。もし私たちに何かしらのプラグが差し込まれ、外部から視覚的情報を差し込まれてしまえば、そちらの方を、目の前にある世界だと誤認してしまいます。
私たちは存在そのものを知り得ない。あくまで、そこから生まれた情報しか知り得ないのです。
皆さんの目の前にりんごがあったとして、それを見るだけでは、
その甘酸っぱさ
その感触
その起源
視覚情報以外を、知ることはできません。
情報社会の始まり
情報とは、私たちが認知する対象のことを指します。そして情報は必ず、何かを媒体とします。視覚・聴覚がその代表例ですが、それ以外にも、文字や言語というものが生み出されました。これらは視覚や聴覚ことなり、
情報を生み出す装置
とも言えます。視覚や聴覚の情報は、ある意味それをそのまま見せるだけです。ですから本物が目の前にあり、それを認識するということになり、その認識から情報が生み出されます。
しかし文字と言語は、それだけではありません。現実から乖離した情報を生み出すことも可能なのです。
“りんご”という情報を誰かに伝えるにはどうしたらいいでしょうか?
・ 見せる
・ 食べさせる
・ 触らせる
といった五感を通じた情報によって伝達が可能です。しかしこれらは、本物を前提とした情報伝達になります。(本物を食べてもらわないと、その甘酸っぱさは伝わりません)けれども文字や言語は違う。
本物がそこになくとも、伝えることができてしまうのです。先ほど私はカッコを用いて「甘酸っぱさ」という表現を使いましたが、皆さんの脳内には、その味を認知することができたはずです。少なくとも、頭の中にイメージが浮かんだことでしょう。
これが、言葉のちからです。
するとどうか。面白いことに、同時に、世界に存在しないものでも、作り出すことが可能となりました。
人は本物を必要としないまま、他者にその存在を伝える(情報を伝達する)ことが可能となった。これが、情報社会の始まりです。
情報社会の発展
人間は文字と言語を駆使し、あらゆるものの存在を認知しようとしました。口伝や文書というのは、その典型でしょう。つまり、本物を必要としない情報を人類は生み出したのです。本物から乖離した情報を、人は伝達できるようになってしまいました。
りんごがなくとも、
私はその味を「甘酸っぱい」という言葉で表現できますし、
その感触を「シャリシャリ」という言葉で表現できます。
もしりんごを食べたことがない人がいたとしても、共通の言語を持っていたら、そのイメージを共有することは可能でしょう(完璧ではないにせよ)。
一方で本物を必要としない情報を生み出せるということは、嘘が可能になるというわけです。私がもしりんごを知らない人に、
「りんごは辛いよ」
と伝えれば、その人はりんごを辛いと思い込みます。これは言葉・文字があってこそできることです。もしそれらがなければ、本物を差し出すことでしかイメージを共有できませんので、嘘をつくことはできません。
でも今度は、これが小説を生み出します。本物ではないものを生み出すということは、別に悪いことではありません。実際になかったことを再現できるようになりますので、“小説”を手にすることができるのです。
人は本物に触れたことないものを知るようになった一方で、本物ではないものまで認知するようになってしまいました。
これが、情報社会の発展です。
本物の再現へ
さて、第一段階は本物から派生する情報、第二段階は本物ではないものからかけ離れた情報について書きました。最後の第三段階は、本物を再現する情報です。
今までは現実を出来る限り再現しようとした文字や言語によって、人間は見たことのないものを認知しようとしてきました。しかし、20世紀から事情が変わってくるようになります。
本物の再現
が可能になったのです。視覚情報・聴覚情報の本物に触れることができるようになりました。ラジオやテレビはその代表例です。本物はそこにいないけれど、本物に関するある分野での完璧な情報を伝える手段を得るようになりました。
今では味や匂い、さらには触感までも再現しようとしています。3D技術を目指そうとするのも、調味料も、すべて“本物の再現”を目指そうとして生まれたものです。
ちなみにこれが“嘘”と交わるとどうなるでしょうか?
文字や動画は単なる情報としてしか認知されなかったことが、今度は本物を再現し、それを人間に認知させようとする。
これが“バーチャル”という段階です。
それが今の、情報社会なのです。
生徒の多くは情報を文字や言葉といったイメージを強く持つかもしれません。あるいは知識とほぼ同じと思うかもしれません。しかしそれだけですと、今の情報社会を語ることはできない(バーチャル世界も一種の情報です)ので、必ず”本物”と情報の区別をするようにしてください。
情報の氾濫
本物1つから発する情報量は半端ないものです。人類は今やそれを再現しようとしている。それだけではなく、虚構の世界までも再現しようとしている。人の数だけ、理想とする世界が異なるのでしたら、その情報量は、現実世界を再構築する情報量よりも、断然多くなります。
紀元前は口伝しか情報伝達媒体がなかったものが、文字が生み出されたことで書物が追加され、世界大戦前にはラジオが、テレビが、そして今では、インターネットが生み出されました。
発信・受信する情報量も増えて、そして発信・受信する手段も増える。
すると、情報が氾濫します。人はいろんなことを知ります。派生されて生まれた情報を得ることで、その派生元を推測して再構築する作業を、脳内で何度も行います。
情報の処理
しかし私たちはあまりにも莫大な情報に直面してしまいました。得ようと思ったデータはすぐに手に入れることができます。あそこのコンビニの売上、何が人気商品なのか、日ごとの利益率、なんでも知ることができます。
情報とは、人間の認知の対象です。
それがたくさん生まれてきてしまいますと、今度はそれを「どう認知していくか」の問題に移ります。
そうして生まれたのが統計学です。統計学は集めた定量データをどのように扱うのかを研究する学問です。もちろんそれだけではなく、定量データをどのように解釈するかについても研究が進められているようです。私たちは、情報とどのように向き合うかを考えさせられている場面に直面しているのです。
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