はじめに~民主主義を巡る最近の議論~
2015年9月19日。日本の安全保障体制に関わる法案が可決され、集団的自衛権の行使が限定的に認められることとなりました。
この法案をめぐっては、採決の場面のみならず、審議の段階から様々な議論が飛び交う様子をニュースや新聞でご覧になった方も多いのではないでしょうか。
審議は可決という形で一応の決着がつきましたが、おそらく今後も外交問題と絡めて様々な場面で今回の議決の是非が問われる状況がやってくるはずです。
この法案に賛成だった人も反対だった人も今後の動きを丁寧に追っていくようにしましょうね。
さて、連日のように様々な報道がなされていたわけですが、その中でも特にいろいろな場面で話題になったのが、「民主主義」とはいったい何を意味するのか?ということです。
例えば、衆議院での審議が可決された翌日の新聞は、新聞社によって、評価の仕方が以下のようにはっきりと分かれていました。主要各紙を見てみましょう。
「衆院平和安全法制特別委員会は15日午後、安全保障関連法案を自民、公明両党の賛成多数で可決した。民主、維新、共産の野党3党は、質疑打ち切りに反発して採決に加わらず、与党の単独採決になった。」
引用元:『日本経済新聞』2015年7月15日 夕刊1面
「今国会最大の焦点となっている安全保障関連法案は15日、衆院平和安全縫製特別委員会で採決が行われ、自民、公明両党の賛成多数で可決された。民主、維新、共産の野党3党反発し、採決に加わらなかった。」
引用元:『読売新聞』2015年7月15日 夕刊1面
「安全保障関連法案は15日午後、衆院特別委員会で採決が行われ、自民・公明両党の賛成多数で可決された。審議を締めくくる総括質疑の終了後、維新の党が退席し、民主・共産両党が抗議する中、与党が採決を強行した。」
引用元:『朝日新聞』2015年7月15日 夕刊1面
「集団的自衛権の行使容認を含む安全保障関連法案は16日午後の衆院本会議で、与党の賛成多数により可決され、参院に送付される見通し。与党が15日の平和安全法制特別委員会で採決を強行したことに反発を強める野党5党は、関連法案の採決に応じない方針だ。」
引用元:『毎日新聞』2015年7月15日 夕刊1面
太文字となっている下線部をご覧ください。
各新聞社によって、この採決のやり方を、
①「可決」
②「強行採決」
という2パターンの評価をしていることがお分かりいただけると思います。
衆議院で採決が行われたのは引用にある通り7月15日でした。
その翌日の月曜日(7月16日)、筆者が通っている大学の授業では、教授主催でこの採決方法について、議論を行いました。
すると新聞紙の評価のように、学生も①と②の立場にはっきりと分かれました。
たとえば、「可決」の立場の学生は、
①「審議時間は110時間を超えており、選挙によって与党は議席を勝ち取ったのだから何も問題はない。」
という意見をあげます。
逆に「強行採決」の立場の学生は
②「審議が深まっていないのに、与党は議席数が多いのをいいことに無理やり押し通した」
と、捉えていました。
さらに議論が続いていくと「可決」グループは、
①「昨年の衆議院議員総選挙では、集団的自衛権も論点の1つとなっていた。それも踏まえて与党が選挙で多数の議席を確保したのだから、民主主義には何ら矛盾していない」
という意見をあげます。
これに対して「強行採決」側グループは、
②「国民が理解をしていない段階かつ、賛成している人が少ない状況で(議席数によって)採決することは民主主義を無視している。」
という趣旨の反論をします。
このように、学生間でも評価がはっきり分かれました。
一方にとっては、民主主義によって決まったことと受け止め、また一方にとっては民主主義を無視したやり方ととらえていますよね。
同じ”民主主義”でも見方によって賛成も反対も生まれる。
それではいったい、”民主主義”にはどういう共通理解を持つべきなのでしょうか?
本稿では、上記のような問題意識をもとに
民主主義について持つべき共通認識を考察
していきます。
民主主義を歴史的に見てみよう
現代で起こっている問題の背景を正確につかみ、それを考えたいときにはどうするか。
民主主義に限らず、自分なりの見方や意見を持つためには、問題の歴史的背景を深く知っておくことが必要にになると私は考えます。
よって本節では、その点について詳しく見ていきます。
”民主主義”は当たり前のように使う言葉ですが、そもそもこの考え方はどのような歴史の中で生まれ、現代に至っているのでしょうか。
こうした問題意識を持ちながら読んでいただけたらと思います。
世界史や倫理を学んでいた皆さんは、民主主義という言葉についてはおそらく何度も勉強してきたことかもしれません。
ですが、ここでは確認の意味も含めて基本的な部分から入りましょう。
<目次>
「民主主義」の重み
現在日本に暮らしている私たちは、「民主主義」社会の中に住んでいます。
この社会のなかでは、各々が自らの価値観で自由に行動し、生きる権利が保障されています。
とはいえもちろん、何でも自由なわけではありません。
この社会の中にいるのは自分だけではありませんから、他者のそれも妨げてはならないのです。
「そんなこと(下線部)は当たり前じゃないか。」と思う方も多いと思います。
しかし、この一見当たり前に見える理念を、当たり前にするために、人類は本当に長い歴史をかけてきました。
”民主主義”の歴史を知ることは、この考え方の重みを知り、自分たちはそれをどう守っていくかを考えていくことなのだと思います。
前置きが長くなってしまいました。それでは中身に入っていきましょう!
「民主主義」の語源と歴史を見てみよう
まずは語源から入ります。
民主主義は英語で言うとDemocracy(デモクラシー)ですね。
デモクラシーはギリシア語から生まれた
「Democracy」の語源となったのは、ギリシャ語でした。
2つの言葉が組み合わさっており、Demos(民衆)+Kratia(支配)という2つの言葉を組み合わせたことで、Democracyという用語が誕生した、と言われています。
この2つの言葉を日本語訳で組み合わせると「民衆支配」という言葉が出来上がります。
この言葉が示す通り、「民衆支配」とは民衆を支配する権利を民衆が持っていることを示しているわけです。
誰か特定の個人に権力を与えて自分たちを支配する体制ではなく、自分たちのことは自分たちで支配するべきだということですね。
もっと具体化すると、民衆の税金の使い道や、国と国の付き合い方など、みんなが関わることはみんなで話し合い決めていこうとすることです。
では、この考え方は世界のどこで、いつ生まれたのでしょうか?ここからは歴史を追ってみます。
全員参加で話し合った
もうお察しかもしれませんが、民主主義の考え方が生まれた場所は、語源を生んだギリシアです。
その歴史をたどると、紀元前5世紀の古代ギリシャにまで時間をさかのぼることになります。
このころギリシャの都市国家アテネでは、18歳以上の市民に参政権が与えられていました。
※奴隷、女性にはこの権利がありません。
アテネでの参政権は、現在の選挙のような間接的なものではなく、直接的なものでした。
エクレシアと呼ばれる会議が行うたびに、市民が参加して話し合いものごとを決定していたのです。
「全員参加」⇒「代表者」による話し合いへ
しかし、全員のことを全員で決定していくのには非常に時間がかかります。
例えば何か1つの税金の使い道をとっても、当事者の住んでいる場所や年齢、環境などが違えば、意見も異なってくるからです。
<例>
- A「私の町には橋を作ってほしい」
- B「私の町には水道を作ってほしい」
- C「私の町には病院を」
こうした話し合いは、それぞれの意見の妥協点や合致点を探すことが必要になりますし、そこには大きな労力を伴います。
全員が政治に関われるのは素晴らしいが、政治が進まない。ついにはこのような状況も生まれました。
こうした状況を打開するために、話し合いの方法にも変化が現れます。
その変化とは、話し合いの代表者を決定することです。
具体的には
(1)代表者が考える最善策を提示する
(2)代表者以外の住民にその是非を問い、多数決をとる
(3)賛成多数ならば実行。反対多数ならば別の策を考え、再度(1)へ
というように、全員参加の決定よりも、スムーズに事が運ぶようになります。
今から2500年以上前のことですが、これは現在、民主主義を採用している各国の政治にも影響を与えていますよね。
「民主主義」を採用している多くの国が、代表者を選挙によって民衆が選び、その代表者たちが政策や法律などの方針を提示し、審議し、多数決をとります。(これを「間接民主制」と言います)
この原形と呼べるものが古代ギリシャには存在していたのです。
民主主義への思いが起こした革命
紀元前のギリシアで生まれた民主主義の考え方は、時代を超えて市民の政治への思いとしてつながりました。17世紀から18世紀にかけてのヨーロッパを思い起こしてみましょう。
この時期のヨーロッパの政治体制は、官僚制と常備軍を柱とする絶対王政でした。
絶対王政において、理論的根拠となったのが王権神授説です。
王権神授説:王権は神に湯対する絶対的なものであるから、人民は国王、そして国家の権威に服従しなけ
ればならないとする考え方
この王権神授説をよりどころとして、強い権力を持った王が民衆を支配する時代が続いていました。
しかし、ルネサンスや宗教改革を経てから、人々は自由な独立した個人としての自覚を持つようになります。社会の中の生活においても、自由な個人として生きる権利を尊重するよう動き始めたのです。
イギリス革命、フランス革命を思い起こしてみましょう。
本稿は世界史の記事ではないので、2つの革命についての詳述は避けますが、
イギリス革命:17世紀のピューリタン革命と名誉革命の総称。最初の典型的市民革命。
フランス革命:徹底的かつ典型的な市民革命であり、フランス社会を根底から変革した。その影響はヨー
ロッパに飛び火し、近代社会成立への転換点になる。
この時期ヨーロッパ各地で起こった市民革命の根底にあったのが「民主主義」への想いでした。
王や貴族が専制的に支配する封建制度を打倒し、自分たちにも自分たちのことを決める権利を手にしようと動いたのがそのきっかけだったのです。
そしてその時、「民主主義」という理想を理論化したのが、イギリスのロック、フランスのルソーでした。
ロック、ルソーの民主主義の考え方についてはまた別に詳しい説明が必要になるので、別記事で紹介しますが、基本的な部分については以下の表を作成しましたのでご参照ください。
(自由・平等、基本的人権、国民主権を基本理念としていることがその主な特徴です。)
選挙から見える「民主主義」
さて、ここまで「民主主義」の歴史を確認したところで、ここからは「選挙」に焦点をうつします。
「選挙」は国民が投票によって政治への意思表示をする場であり、「民主主義」の根幹を成すものといえるからです。
そんな「選挙」はどのように行われているかを見ることで、政治スタイルが浮き彫りになってきます。
選挙の中身
「選挙」によって政治スタイルにはどのような影響が出るのか。2つの視点から見ていきます。
投票に圧力がかかる場合
結論から述べると、投票に圧力がかかる=健全ではない「選挙」が行われる政治は「独裁」制のスタイルになります。
独裁制:権力の集中による支配体制のことで、一般的に政治的自由が抑圧され、民主主義、法治主義は否定される。
引用元:『法律用語辞典(第4版)』
それはいったいなぜか。具体的にご説明します。
まず、圧力のかかる選挙で選ばれるのは、
・生まれつきその国での特別権力を有している
・自分の裁量で政治を含め様々なことを決定する権利を持っている
このような人物です。
いわば初めから結果が分かっている出来レース。
日本で行われる選挙のように複数の候補者がいて、結果が出るまで誰が当選するかわからない選挙ではないのです。
とはいっても形式上は選挙を行います。
「結果がわかっているのに何を選挙するの?」と思うかもしれませんね。
こうした選挙を見る限り、(一応の)争点となっているのは政権の「続投」を認めるか否かというものです。
しかも投票の際には投票者の「(続投)賛成」と「(続投)反対」が、監視される中行われます。
そうするとどうなるでしょうか。
もし監視員の前で一度でも「反対」の投票をしようものなら、選挙会場から出た瞬間に監視していた人たちの仲間に取り囲まれ、そのまま行方不明になってしまいます。
びっくりするかもしれませんが、こんな事例が実際に存在しているのです。
こうした状態では、当然まともな選挙はできません。
独裁者があたかも国民の総意で選ばれているかに見せるよう、監視という名の圧力をかけているからです。
そして国民は、独裁者の側近や部下にでもならない限り政治の決定にかかわることはできません。
(実際は側近や部下も意見を述べることができない場合がほとんどです。)
また、決定事項や政策に不満があったとしても、前述した理由で選挙を利用することもできません。
つまり、政治や独裁状況に不満がある場合には、歴史が示してきたような革命、軍事クーデターなど物理的な力に頼らなければ独裁者を辞めさせることができないのです。
健全に行われる場合
こうした抑圧的な選挙とは対照的に、健全に行われる選挙とはどういうものを指すのでしょうか。
結論から述べると、選挙が健全に行われれば、政治スタイルは「民主主義」制になります。
なぜそうなるのか、詳しく見ていきましょう。
そもそも”健全に行われる選挙”とはどのようなものでしょうか。
法律用語辞典の定義から考えてみましょう。
選挙:特定の地位に就くべき者を多数人によって選定する行為及びその手続の総称。通(中略)近代的民主国家では、多くの国家機関を選挙によって選任すべきものとし、かつ、その選挙については、普通、直接、秘密、平等を保障している。(以下略)
引用元:『法律用語辞典(第4版)』
とあります。
つまり、健全に行われる選挙には、
(1)普通:身分・性別・教育・信仰・財産・納税額などによって制限しないこと
(2)直接:投票者が直接投票すること(本人のみ投票できる)
(3)秘密:秘密投票で行われる(誰が誰に投票したかの秘密が守られる)
(4)平等:投票者の1票の価値が等しいこと※
の4条件を備えていなければなりません。
(4)に限っては、残念ながら日本では現在課題を抱えているのですが、少なくともそのほかの3つについては達成されていますよね。
※本稿では、「1票の格差」問題はいったんおいておきます。
先述した独裁制との比較で言うならば、こちらは自由な投票が許されていることが大きな特徴です。
選挙への制限を受けず、自らの手投票でき、きちんと秘密も守られます。
もちろん誰がどの政治家、政党に投票をしても良いのです。
また、独裁制とは根本的に異なる考えがあります。
その考えとは、生まれつき権力をもった政治家はいないということです。
二世議員、三世議員と呼ばれるように、親やその親に政治家を持つ人物であっても、政治家になるためには、他の候補者と同じように、選挙で投票数を争わなければなりません。
投票する者がきちんと自分の意思を自分の声で発することが出来る下地があってこそ、「民主主義」は成り立つのです。
すべての国民が政治の舞台に立って議論に関わることが出来るなら、それに越したことはありません。
しかし、先に説明したように、それは現実的に不可能なのです。
そこで、古代ギリシアの部分で説明したように、自分の考えに近い政策を実行しようとしている候補者に投票して、政治に自分の声を反映させる仕組みになっているわけです。
では、もし当選させた政治家が次の選挙までの期間において、公約を守らなかったり、期待を裏切られたりした場合にはどうすれば良いでしょうか。
そうなったら、有次の選挙で投票を外せば候補者を落選させることもできるのです。
独裁制の政治のように、革命やクーデターのような暴力に訴える必要とはない、ということですね。
まとめ~民主主義に持つべき共通認識とは?~
さて、本稿の冒頭で民主主義にはどのような共通認識を持つべきなのか?と皆さんに問いかけ、ここまで一緒に考えてきました。
最後に、民主主義に対して持つべき共通認識への筆者の考えを記しつつ、本稿のまとめをして締めとします。
結論から述べると、私たちが民主主義について持つべき共通認識とは
「選挙を通して、政治家に一定期間政治の決定権力を与えること」
であると筆者は考えています。
本稿で見てきたように、「自分たちのことを自分たちで支配しよう」という言葉の意味をもつ民主主義は、全員で話し合い物事を決定することから始まりました。
しかし、そのやり方があまりに非効率的であることから、民衆の代表者を選び、多数決で採決をとる方式を採用してきたのです。
こうすることで、実際の政治の場に立つ人は限られますが、そのかわり自分の考えに近い政策を掲げる代表者への投票を通して、意見をすることができる形になりました。
これが現代にもつながる選挙です。
しかし、”意見をすることができる”のは、すべての政策ではありません。
なぜなら、刻一刻と変化する社会の中で次の選挙が行われるまでに
・どんな問題が起こるか
・それに対してどう策を練ればよいか
をすべて予測し、判断することは不可能だからです。
だからこそ、民主主義というのは、選挙が行われるまでの一定期間、投票を通して税金の使い道や法律の立案など、選ばれた政治家に政治の決定権力を与えることなのだと考えます。
冒頭でも述べたとおり、「民主主義」は昨今大きな話題になっていました。
冒頭でもあげましたが、「民主主義」のとらえ方が立場によって全く異なっており、議論がかみ合っていないと感じた方も多いのではないでしょうか?
本稿ではそんな皆さんに民主主義とはそもそもどういう意味なのか、そしてどのような歴史的背景があるのかを考えてもらいたいと思い、執筆しました。
長くなりましたが本稿は以上です。ここまでお読みくださりありがとうございました。
この記事を読んでくださったあなたにおすすめの記事
政党ってどういう役割があるのかちゃんと説明できますか?
国会の仕組みって複雑・・・この記事を読んでスッキリしよう!
~国会の仕組み①~中学校社会公民分野指導法【塾講師の教養にも!】
最後までお読みいただきありがとうございました。
塾講師ステーション情報局では指導に役に立つことから時事問題まで様々なテーマの記事を掲載しております。
少しでも私たちの記事が皆様の役に立てたら幸いです。